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般若心経 空とは何か

体が白く目が赤く兎のようにも猫のようにも見える生物が
夢枕に現れてこう言った。
「空(くう)とはエネルギーのことだよ」
そして目が覚めた。

本日2月8日は約7年前に亡くなった父の誕生日である。
お寺の宗派は曹洞宗といい、唱える経典のひとつは「般若心経」というものだ。
その経文が短くて解りやすいということで以前に配られていたのを持っている。
全部漢字だからさっぱり分からん。
そのなかでも「色即是空(しきそくぜくう)」というのは
その代表的な箇所ということで多くのところで引用されているから知っている。
誰かが冗談で「エロいこと考えてもむなしいだけという意味だよ」
と言っていた気がするし、
お坊さんが唱えるのだからそれに似たことだろうと勝手に思っていた。

朝、目覚めてから少し考えが変わった。
そこで自分なりに考察したのが以下の結果というわけである。

まず、前提として「空(くう)はエネルギーを意味する」は
目の赤いやつの啓示を受け入れることにする。

サンスクリット語を玄奘三蔵(三蔵法師)が漢文に訳した全文は最後に載せた。
以下、区切りのいい場所ごとに漢文を解釈していく。
なお、ネット検索で幾つかの訳例を参考にした。

> 仏説・摩訶般若波羅蜜多心経 (1)

◎ お釈迦さまが説いた偉大な、般若波羅蜜多
(智恵による彼岸へ到達するための修行)の教えの核心
 【1】

ということになる。つまり前置きだ。

ちなみに般若心経の般若とは智恵のことであり、
怖い顔をした「般若の面」とは無関係だ。

> 観自在菩薩行深般若波羅蜜多時
> 照見五蘊皆空 度一切苦厄 (2)
観自在菩薩というのは観音様のことで、「観自在」のあたりが
後の(10)の理由により時間を遡行したり自在に行き来できる能力
のように思えるが、それはさておき、
観音様がその修行を深くやっていたときに「五蘊がどれも空」であること
に気付き一切の苦厄(苦労と災厄)を追いはらった、という説明になる。
そうすると五蘊が何かということになる。

五蘊(ごうん)というのは、次のように色・受・想・行・識の五つだ。
 色(しき) 世界を構成する物質のこと、特に人間であれば肉体のこと
 受 刺激を感じること、またはその情報のこと 例「背中がかゆい」
 想 記憶を引き出すこと、あるいは記憶 例「昨日はカレーを食べた」
 行 何かを望むこと、思考 例「深呼吸がしたい」
 識 心から考えを生み出すこと、感情 例「このバラは美しい」

この五蘊は後の説明(4)から色と受想行識のブロックに二分される。
簡単に言うと、
色は形のある「物質」で、
受想行識は形のない「情報・記憶・思考・感情」だ。

ここまでの結果を読み替えると次のようになる。

◎ 時空間を見渡せる観音さまは、修行中に
 物質・情報・記憶・思考・感情の五大要素はどれもエネルギーである
 ことに気付き、一切の苦厄を打ち払った。
【2】

これが般若心経の最初に出てくる「あらすじ」の紹介、ということになる。
では、先に進むことにしよう。

> 舎利子。
> 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色  (3)
舎利子というのは弟子のことで、
つまり弟子がちゃんと説話を聞いているか問いかけている。
さて、核心部分が出てくる。

 色不異空 空不異色

が同じことを二度言っているように思えるが、
そうではなく左右の反転で両者が等価ということを強調したのだろう。
色は空と異ならないし、空は色と異ならない。だから・・・

◎ 物質とエネルギーは等価である。 【3-1】

この等価性を計る物差しは文章からは分からない。
その続きも同じことのように思えるのだが、
文章に無駄がないと仮定すると、何か違うことを言ってるはずだ。
ここでは「即是」を変換可能のことと推理する。

 色即是空 空即是色

は、つまり、
色は空に変化するし、空は色に変化する。だから・・・

◎ 物質とエネルギーは相互に変換可能である。【3-2】

なにか深遠なことを示唆している気もする。
「ビッグバン」は、138億年前、1点に集結していたエネルギーが
物質に転換して膨張し、宇宙が誕生したという仮説である。

> 受想行識亦復如是 (4)
受想行識も同様だ、と言っている。つまり

◎ 情報・記憶・思考・感情とエネルギーは等価である。【4-1】
◎ 情報・記憶・思考・感情とエネルギーは相互に変換可能である。【4-2】

ここで思い出されるのはエントロピーという概念である。
それは物の配置や情報などのデタラメな度合いを示すもので、
そのデタラメ度は宇宙全体で見ると徐々に増加しているという仮説もある。
物理学の実験で、物質の運動(熱)と情報は、いずれも
エネルギーの一種であってエントロピーの性質を持つことが示されている。
もし宇宙自身に苦厄があるとするなら、エントロピーだろうな。

> 舎利子。
> 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 (5)
調べると、「諸法」とは有形無形のすべてのもの(万物)のことのようだ。
自分の直感では「諸法」は五蘊の関係を律する法則、理(ことわり)だと思った。
「空相」は空の姿、なので、「空」を一歩下がって観測したということか。
この一文は次のような意味になるだろう。

◎ 五蘊の関係を結びつけるすべての法則もまた、
 エネルギーと同様の性質を持ち、
 生じたり滅したりせず、汚いとか清いとかもなく、増減もしない。
【5】

ちなみに、現代物理学では、エネルギーは形を変えても
総量は変化しないというのが法則として知られている。
また、我々が知るどんな法則も、それが変化したという形跡は無い。
そして浄不浄の区別も無い。
まあ、神か仏が交代したなら、法則も変更されるかも知れないが。

> 是故空中 無色無受想行識 
> 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 
> 無眼界 乃至 無意識界 (6)
「眼耳鼻舌身意」というのはインタフェース(感覚器官)のことであろう。
そうすると「色声香味触法」はデータである。
何度も出てくる「無」は、ここでは「執着しない」と解釈した。

 それゆえ、物質も情報・記憶・思考・感情も、それらのインタフェースも
 そこから受取るデータも、執着する必要などなく、
 インタフェースを通して知る世界もまた執着する必要などないのである。
【6】

> 無無明亦無無明尽 乃至 無老死亦無老死尽 (7)
「無明」は愚かなこと、「老死」は老いて死ぬことで、
お釈迦様は苦厄の原因を分類して12種類を示したそうだが、
この2つが苦厄の原因を代表していると考えられる。

◎ 「愚かさが怖い」「死ぬのが怖い」といった様々な苦厄はありもせず、
 無いのだから苦厄が尽きることもない。
【7】

> 無苦集滅道 無智亦無得 (8)
「苦集滅道」というのは「四諦」のことでお釈迦様の初期の教義。
煩悩とそれを取り除く方法を指す。
「智」は「般若」の言い換えで、般若心経自身のこと、
「得」は「悟りの智恵を修得する」こと、だと思う。

◎ 前にお釈迦様が教えた)煩悩を取り除く方法に執着する必要はないし、
 この般若心経をはじめとする般若経にしても
 修得することに執着する必要はないのである。
【8】

執着しないほうが身につくということか?

> 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
> 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖
> 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 (9)

◎ 菩薩さまは、悟りの智恵を身につけることで、心から引っかかりを取り去り、
 恐怖も無くなり、ややこしい考えも遠ざかり、平穏な心の境地に達した。
【9】

> 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提 (10)
三世というのは過去・現在・未来の三つの時間のことで、
三世諸仏は連綿と続くすべての時間に居る仏さまたちのこと。
阿耨多羅三藐三菩提というのは音訳らしく、
このうえない正しく平等な目覚め、という意味になるらしい。

◎ 時間軸に展開するすべての仏さまたちも、
 
般若波羅蜜多を身につけることで、
 このうえない正しく平等な目覚めを得た。
【10】

> 故知 般若波羅蜜多
> 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
> 能除一切苦 真実不虚故 (11)
呪は「合言葉」的なもので「真言」ともいう。

◎ だから、般若波羅蜜多は、
 神からの、優れた、この上ない、比べるものも無い、合言葉なのだ。
 あらゆる苦を取り除くことができる、真実の言葉なのだから。
 【11】

> 説般若波羅蜜多呪 即説呪曰
> 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提 薩婆訶  (12)
後半をサンスクリット語から訳すと
「往く人、往く人、彼岸に往く人、彼岸に善く往く人よ、幸あれ!」
になるが、ここは原語の発音を尊重し、訳さないでおく礼儀のようだ。

◎ 説明しよう、悟りの智恵を身につける合言葉を。こう言うのだ。
ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハ
 【12】

ちなみに、「薩婆訶」は、日本のお経では「ソワカ」と発音されている。


おわりに

般若心経は千数百年前に仏陀の弟子によって作成された経典である。
その全体を眺め直すと謎の単語「空」は万能変数のように思えてくる。
それをどう解釈するかによって千差万別の世界像が現れるのだ。
しかも「空」が何であろうと後半から結びに至る流れには影響しない。
ということは、「空」の定義の多様性は最初から織り込み済みで
般若心経の真の目的は、脳を活性化するための教材、
ブレインストーミングの手法を使った思考ツールだったのかもしれない。

以上の解説は、柴崎銀河が独自の解釈をしたものですので、
その点はご了解ください。


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[参考] 信長 第6章【桶狭間の戦いの真実】 鈴木銀一郎

鈴木銀一郎先生が、BBS「金羊亭」で、
織田信長の研究に関する記事を掲載していますので、ご案内します。


信長 第6章 桶狭間の戦いの真実 (2009年8月26日)

〔浮かび上がる疑問〕

日本の合戦で、最も多く取り上げられたのは桶狭間の戦いに間違いない。
だから、新しい発見などもうあり得ないと思い、
定説に「予定戦場における兵力の優勢」と、
「戦いの中心」いう視点を加えて再現したのが、前章である。
ところが、すっきりしない思いが残った。
そういうときは、全ての常識や、先入観を捨て、
調べるというのが「シミュレーション発想」である。
すると、次から次へと、たくさんの疑問が見つかったのである。

(1) 義元はなぜ中島砦を占領しなかったのか
(2) 義元はなぜ桶狭間山で休息したのか
(3) 信長はなぜ敵兵が疲れ果てているといったのか
(4) 鷲津・丸根攻略隊はその後どう行動したのか
(5) 佐々・千秋の突撃隊の目的は何だったのか
(6) 義元の侵攻目的は何であったのか
(7) 義元が投入した兵力はどのくらいだったのか

これらの疑問がすべて、
ジグソーパズルのようにしかるべき場所に収まらないかぎり、
桶狭間の戦いの謎は解明されたとはいえないであろう。
この中で、わたしが最大の疑問と思ったのは、
「なぜ義元は中島砦を占領しなかったのか」ということである。
善照寺砦と中島砦を結ぶのは細い一本道で、その周りは深田である。
つまり、中島砦は隘路を扼する一方で、そこからは自由に南方に兵力を展開できる。
つまり、戦略上重要な拠点なのである。
今川方が中島砦を占拠していれば、沓掛~大高の交通路は安全に確保できる。
逆に、織田方が占拠していれば、
織田軍はいつでもそこから交通路を脅かすことができる。
実際に、信長は中島砦を攻勢発起点として、今川勢を破っているのである。
戦国時代の軍学の集大成は、後十年ほど待たねばならないが、
このような戦略上の拠点についてはすでに常識になっている。
太原雪斎の薫陶を受けていた義元が、
この砦の重要性に気づかなかったとは考えられない。
中島砦を奪取する時間も、兵員もたっぷりあった。
沓掛城から桶狭間までが、七・四キロメートル。
そこから中島砦まで二・七キロメートル。
十八日の朝に、千か二千の支隊を送れば、昼には楽に奪取できたはずである。
そうすれば、以後の作戦は側面を気にせず、スムーズに遂行できたであろう。
なぜ、そうしなかったのか。
ここで、第二の疑問、「義元はなぜ桶狭間山で休息したのか」が湧いてくる。
五月十九日は現在の暦では六月二十二日であり、非常に暑い日であった。
長い行軍の途中で一息入れるのは、当たり前のような気がする。
わたしも当初そう考えていた。
しかし、実際の距離を調べてみると、納得できない点がでてきた。
沓掛~桶狭間山は約二時間の行程でしかないのだ。
さらに、桶狭間山~大高城の距離もそんなものである。
もし、義元が大高城を起点とした攻勢を意図していたなら、
朝早く(たとえば午前七時に)沓掛を出発すれば、
正午には楽に大高城に到着できていたのである。
中世の人々は、現代人に比べればはるかに早起きであった。
ましてここは軍陣である。兵士たちは夜明けともに起き、朝食をとる。
義元だけが朝が弱いタイプとは思えない。
義元は幼いころから禅寺で修業していたから、
夜明けの起床は身についていたはずだ。
当日の夜明けは四時半ごろである。
前夜に通達しておけば、午前六時には第一陣が出発できたろう。
そうすれば、陽が高くなり、気温が上がる前に大高城に到着できたはずである。
それなのに、昼近い時刻に桶狭間山で「人馬に息を入れた」のはなぜなのだろうか。

鈴木銀


〔信長は事実誤認をしたのか〕

第三の疑念である。
信長は、中島砦から攻勢に出ようとしたとき、兵士たちに演説した。
その中に、「あそこにいる敵は、前の晩兵糧をとっただけで、夜通し歩き続け、
大高に兵糧を入れ、鷲津・丸根では手を焼き、疲れ果てた連中だ。
それに対して、こちらは新手である」という一節がある。
これまでの説は、目の前にいる敵は前軍であり、
それを信長が鷲津・丸根攻撃隊と誤認したのだとしている。
牛一は信長の事実誤認も隠さずに書いており、
だから『信長公記』の合戦の記事は信用できるの、という論理である。
果たして、そうなのだろうか。
この演説は、現場で録音したものをそのまま原稿に起こしたものではない。
何年もたってから一語一語を吟味し、推敲した結果の文章である。
また、合戦の模様を描写したものではなく、
その合間の信長の行為を描いたものである。
合戦の模様、例えば、いつ、だれが、どの方向に向かって攻撃したという記事なら、
全面的に信用してもいい。
しかし、信長が事実誤認をしていたなら、牛一がそのまま書いただろうか。
牛一は、『信長公記』の中で信長への批判は一つも書いていない。
その行為は全て正当化して書いているのである。
例えば、伯父織田信光暗殺については、こう書かれている。

「その年の十一月二十六日、不慮の出来事によって信光は死去した。
誓紙による約束を破った罰が下ったのである。
まことに天道は恐ろしいものだと、人々はいい合った。
しかし、信長にとっては正しい御政道の結果の果報だった。」

信光の死は天罰だったが、
信長はその正しい治世によって果報を得たというのである。
あまりにも身びいきが過ぎないだろうか。
ただし、牛一は信光の死に「御遷化」という言葉を使っている。
「御遷化」は信長の父信秀の場合にも使われているのだが、
手許の小さな漢和辞典によると、本来は「高僧の死」に使われるようである。
しかし、牛一は後に策彦周良の死でも単に「病死」で片づけてしまっている。
牛一は「御遷化」という言葉を使うことで、
評価のバランスを取っているのではないか。
つまり、信光の死は「天罰ではない」と暗示しているのだと推測する。 
そういう牛一が、ここだけ、信長の事実誤認を認めているのは不自然ではないか。

では、信長のいったことが真実とすれば、どうなるのだろう。
信長軍が目にしていたのは、鷲津・丸根の攻撃部隊だったことになる。
しかも、沓掛方面へ撤退している途中の姿を見ていたと解釈するほかない。
数千の兵の撤退である。兵の列は延々と続いたであろう。
佐々・千秋隊もそれを見たに違いない。
目の前、数百メートルのところを撤退していく今川軍がいる。
佐々・千秋はくわしい事情を知らない。
しかし、明らかに沓掛方面へ、つまり後方に進む部隊である。
進軍中の部隊と違って戦意も低下していて、それが見てとれる。
佐々・千秋隊は、その今川軍は撤退というよりは、退却中だと判断したのであろう。
退却中の敵ほど討ち取りやすいものはない。
突撃したくてうずうずしているところへ、信長が善照寺砦に入ったのが見えた。
「信長様もこの様子を見ていれば、抜け駆けでもお許し下さるだろう」と思って、
突撃を開始する。
実をいうと、信長の戦術戦思想に「陽動作戦」というものはない。
野戦においては、常に敵の正面からぶつかっていくのである。
城攻めの場合は、一番遠い城から攻めるという戦略パターンはある。
それによって、途中の城の活力を奪い、相手の士気の低下を図るのである。
上洛の際の六角氏に対したときがそうだったし、
その後の伊勢攻めにおいても、同様の作戦をとっている。
しかし、野戦においてはそういうパターンは見られない。
そういう観点から、佐々・千秋の突進も信長の命令による陽動ではない、
つまり抜け駆けであるとするなら、
このような状況下だったのではないかと想像されるのである。
ところが、中島砦に相対する丘の斜面には、前軍が配置されていた。
佐々・千秋隊はその反撃に会って、敗れてしまうのである。
あるいは、佐々・千秋隊に対したのは、撤退の殿部隊であったかもしれない。
殿は撤退を援護する役割をもつ。
だから、敵を見ればすぐ戦うことを決意したであろう。
また、戦意も高く、精強の部隊であったに違いない。
佐々・千秋隊は、案に相違した反撃を受け、敗れて退却した。
では、桶狭間山にいた義元はどうだったのか。
配下の部隊が撤退するのだから、当然、義元も撤退を行おうとしていたはずである。
そうであるなら、最初の二つの疑問も氷解する。
同時に、全く新しい「桶狭間の戦い」の姿が見えてくるのである。
大高城への兵糧入れは、本格攻勢の開始を意味するものではなく、
二日間で終わる予定の臨時の作戦だったのだ。
(だから、中島砦は取る必要がなく、単なる備えの配置ですませたのである)
信長は進軍途中の今川軍を攻撃したのではなく、撤退中の今川軍を攻撃したのである。
その推理を裏づける資料があるかどうか。
調べてみると、『三河物語』では十八日に大高城にいたと思わせる記述がある。
以下は、『三河物語』の口語訳である。

義元は、池鯉鮒からだんだんと前進し、大高に行った。
十九日、某山の上にある砦をしっかりと巡見し、諸将を集めてやや長い軍議を行った。
その結果、
「さらば攻め取ることにしよう。
それならば、元康(家康)が寄せ手を務めよ」といった。
元康が丸根砦に攻めかかると、
佐久間大学は、このままでは砦は破られると思い打って出た。
佐久間の運は尽きていなかったようで討ちもらしたが、
家の子郎党はことごとく討ち取った。
このとき、松平善四郎、筧又蔵その他の衆も討ち死にした。
その後、大高城に多くの兵糧を入れた。

十九日早朝に始まる丸根砦攻撃の前に、義元は織田軍の砦を巡見し、
軍議を開いたというのだから、
十八日のうちに大高城に入っていたと考えるのが自然であろう。
『三河物語』は家康の家臣であった大久保彦左衛門忠教の著書で、
徳川家と大久保家にまつわる歴史などが記された歴史書、兼家訓書である。
家康びいきのところが多くみられ、全てを信じることはできないとされる。
しかし、この記述では、特に家康びいきがあるわけではない。
逆に、『信長公記』ほかの資料には、
義元が十八日に大高城にいなかったとは書いていない。
つまり、『三河物語』を否定する資料はないのである。
なぜ、信長の研究本が『三河物語』を無視するのか、その理由がわからない。
義元が十八日には大高城にいたという前提に立つならば、
義元の侵攻目的、動員兵力は再検討する必要があるだろう。

鈴木銀


〔太原雪斎と今川義元〕

今川義元は永正十六年(一五三六)氏親の五男として生まれた。
幼いときに出家し、はじめは駿河の善得寺、
のち、京都の建仁寺、および妙心寺で修行している。
いずれも臨済宗の寺院である。
太原雪斎は今川氏親から「三顧の礼」をもって迎えられ、義元の師範となった。
歳は義元より二十四歳上である。
有光友學氏の『今川義元』では、禅寺における二人について、こう述べている。

雪斎と義元は、駿河国にあっては、善得寺や善得院で仏道に仕えるとともに、
駿府を中心とする社交界で活動し、また、京都にあっては有数の僧や公卿、
文化人と交わり、幅広い人脈を築き、
さまざまな経験をして知識と素養を高めていたといえる。
このことを抜きにしてこれ以後の義元の生涯を語ることはできないであろう。

「禅寺に入る」即「仏道修行」と思いがちだが、サロン的な効用など、
いろいろな効用があったことを教えてくれる。
天文五年(一五三六)三月十七日、今川家の当主であった氏輝と、
その後継者と目されていた弟の彦五郎が同日に死亡するという事件が起きた。
死因や、なぜ同日なのかなどの謎は解明されていない。
これによって新たな家督争い(花蔵の乱)が起こる。
還俗した義元は雪斎の助けを借りて、この乱に勝ち、
六月十日に今川家の当主となった。
以後、雪斎は義元の主席補佐官として幅広い活動を行うことになる。
雪斎が助言したのは国内の治世分野だけではなかった。
武田、北条氏に対しては、外交官として交渉に当たり、織田氏に対しては、
総大将として何度も出陣していた。
天文十六年(一五四七)八月、
岡崎城主松平広忠は織田信秀の侵攻に対する支援を仰ぐため、
嫡男の竹千代(家康)を人質として今川に送ることにした。
ところが、その途中で、田原城の戸田康光によって奪われ、
家康は織田方に送られてしまった。
家康は熱田社大宮司加藤順盛に預けられたが、
それを聞いた信長は家康に会いに行っている。
信長十四歳、家康六歳のときであった。
このときの二人の会見の模様を伝える資料はない。
六歳の少年家康の中に信長は何を見たかはわからない。
しかし、家康の方は、八歳年長の信長から強烈な印象を受けたことであろう。
後年、この二人は同盟を結ぶことになる。
その同盟は家康にとっては苛酷なものであった。
しかし、家康は同盟を破ることはなく、信長の死まで忠誠を尽くしたのである。
その後、雪斎は総大将として今川勢を率い、
田原城を攻撃して、これを落としている。
翌年三月、織田信秀の侵攻に対し、
雪斎は今川勢を指揮して岡崎城の手前の小豆坂で戦い、勝利を収める。
この間、義元はというと、
駿府において兄氏輝の十三回忌の法要を執り行っていたのである。
今川家では、武将と僧の立場が逆になっていたといえるだろう。
天文十八年三月、岡崎城主松平広忠が家臣に刺殺されるという事件が起こる。
今川方はすぐさま雪斎が率いる軍勢を岡崎城に入れ、接収した。
さらに、雪斎は信秀の長男信広が守る安祥城を目標に定め、
付近の城への攻撃をしきりに行う。
そして、十一月、ついに安祥城を攻略し、信広を捕虜とした。
このとき、今川軍は信広がいる本丸を攻撃せず、
三の丸、二の丸を落としたところで、降伏勧告を行っている。
その二日後、信広と竹千代との捕虜交換が行われた。
雪斎の計画通りに事が運んだわけである。
翌年、雪斎は上京し、臨済宗最高位の妙心寺住持となり、
後奈良天皇から紫衣を賜った。
上京はそれだけが目的ではなく、今川の三河領国化について、
朝廷、幕府に了解取り付けの運動も同時に行ったのであろう。
雪斎は文化面においても活躍し、
「今川版」と呼ばれる書籍の刊行にも深く関与した。
このようにスーパースターともいうべき禅僧だったが、
その人となりは分からない。
雪斎は弘治元年(一五五五)十月十日、葉梨(藤枝市)の長慶寺で死没した。
享年六十。
年齢からみて病没だと思われるが、
そのことにふれている資料はわたしの手元にはない。
桶狭間の戦いの五年前のことであった。

鈴木銀


〔今川義元の桶狭間〕

信長は、国内の反勢力の制圧が進むにつれ、
西三河に対して積極攻勢の姿勢をとっている。
織田・今川の戦いは尾張・三河の国境付近で間断なく続いていたが、
村木砦の戦い以後、攻勢に出ているのはほぼ織田方であったといっていい。
つまり、今川方の田畑は常に織田方の焼き働きの脅威にさらされていたのである。
これは領主である今川義元の権威の失墜にほかならない。
さらに、信長は尾張領の奥深くまで進出した鳴海城、
大高城に対しては付け城を築いて、その活動を制限した。
特に大高城に対しては鷲津・丸根のほか氷上・向山・正光寺という三つの砦を築き、
補給路を断った。
地図を調べると、鷲津・丸根だけでは海上からの補給を妨害するには不十分に思える。
補給路の遮断のためには、それらの砦は必要であったに違いない。
これに対し、義元はどういう作戦を取ろうとしたのか。

今川義元は「海道一の弓取り」と謳われていたが、
それは太原雪斎がそばにいてのことであった。
家臣たちもみなそう思っていた。
ただ、義元自身はそれを認めていなかったであろう。
雪斎とともに戦陣にいたとき、雪斎の進言は全て自分の考えと同じであると、
義元は思ったに相違ない。
義元の兵学は雪斎から学んだものだ。
だから、雪斎の助言は全て思い当たることばかりである。
思い当たるのと、考え出すのとでは実は雲泥の開きがあるのだが、
しかし、義元はそれに気づいていない。
それは、国主はあくまでも自分であるという自負から生まれたものであろう。
雪斎も、義元に対し、立てるべきところは立てていたと思われる節があるので、
国主としての自負は損なわれることはなかった。
「雪斎がいてもいなくても同じことだ。
信長との戦いで、それを家臣どもによく分からせてやる」
出陣の儀式を行いながら、義元はそう決意したであろう。
そのために、長男の氏真に駿河・遠江の統治を委ねるなどの準備も重ねた。
その準備期間は、西三河は支配しているとはいえ、信長に押され気味であった。
当然、義元の狙いは国境付近での反転攻勢であったろう。
ただし、義元には信長と決戦する気はない。
義元だけでなく、当時の戦国大名は「決戦によって相手の主力を殲滅する」という
作戦思想をまだ手に入れてなかった。
たぶん、味方の兵力の損耗を恐れるあまり、
敵撃滅にまで心が至らなかったのであろう。
同様の傾向はナポレオン以前のヨーロッパにも見られる。
当時の訓練された常備兵は君主にとっては貴重品であった。
だから、戦いにおいては、できるだけ兵士の損耗を避けた。
将軍たちの作戦の主眼は、地形を利用していかに有利な陣形を布くかに置かれ、
不利な陣形を強いられた側は、決定的な局面を迎える前にさっさと退却した。
だから、兵士の損耗率は非常に低く、
両軍合わせて戦死者一名という戦いもあったほどである。
義元が考えていたのも西三河において主導権を奪い、失地を回復した上で、
織田領に侵攻し、一城を抜き、一城を調略するという漸進作戦であったに違いない。
駿河・遠江の統治を嫡男に任せたということも、
義元が三河に腰を据えて戦う気であったことの表れであろう。
そのような局地的な長期作戦を考えていたと仮定するなら、
通説による二万五千という大量動員はどう考えても不自然である。
今川の最大動員兵力は三万程度である。
せいぜい、一万二、三千といったところだろう。
試しに、通説の二万五千という兵力が沓掛~大高にいたという状態を
想定してみるとよい。
当時、沓掛は安全な後方基地ではなく、最前線に近いものだった。
そこで、沓掛に四千。
鷲津・丸根攻撃隊に大盤振舞いで五千、義元の本陣に五千、
後、一万一千をマップ上に合理的に配置してみればよくわかる。
桶狭間~沓掛は千もあれば充分。後、一万が桶狭間近辺ということになる。
それで、信長の強襲が成功したかどうか。

義元が沓掛に到着したとき、
(あるいはもっと前かもしれないが)大高城から兵糧不足の訴えが届く。
見殺しにするわけにはいかない。
そこで、沓掛で予定外の作戦を決定する。
それが大高城の兵糧入れである。
このとき、義元の取りうる最上の作戦は東海道や、
大高道よりも北の鎌倉街道に大軍を展開させ、善照寺砦から、
丹下砦を攻略することであったろう。
それが成功すれば、大高城に対する織田方の付け城は逆に包囲され、
放棄せざるを得なかったに違いない。
兵糧不足の訴えなどは、二日や三日は我慢させればよかったのである。
しかし、義元は、兵糧不足には兵糧を入れるしかないという、
単純な作戦しか思いつかなかった。
義元は治世においては法治主義を貫こうとし、
法制度も常識に合わせて細かい規定を加えていった。
その姿勢はそれなりに評価されるべきである。
しかし、根本的な改革というものは全く見ることはできない。
どうやら飛躍した発想というものは、
義元の思考パターンには入っていなかったようである。
義元が兵糧入れに投入した兵力は五千。
それに兵糧を船で運んできた服部水軍がプラスされる。
今川方は前にも大高義元に兵糧を入れたことがある。
そのときはもっと少ない兵力しか投入しなかった。
だから、五千という兵力は充分すぎる数であり、
何の危険もないと、義元は判断した。
織田軍は方々の城砦に兵力を分散しており、
大軍をもって反撃する能力はないと見ていたからである。
その判断に誤りでなかった。
そこで、義元は大将である自分が本陣五千とともにいっしょに出陣することにした。
義元にとっては、初めての実戦指揮である。
そこで見事な成功を収めて、
将としての実力を家臣に示してやろうというつもりだったと推測する。
たった二日の作戦である。
成功すれば、神速の作戦であり、見事な采配であったと世に喧伝されるであろう。

前日(十七日)、千人程度の先遣隊が出発し、
進撃路の安全を確認し、途中の休憩所などを設営する。
一日目早朝、兵糧入れの部隊と義元の本隊約九千人が沓掛を発ち、大高城に入る。
二日目払暁、鷲津・丸根砦を攻撃。その後、順次撤退を行う。
義元の本隊五千人は途中の桶狭間山に布陣し、
他の部隊の撤退を見届けてから最後に撤退する。

作戦は計画通りに進んでいた。
十八日、今川の大軍が進んでくるのを見て、
氷上・向山・正光寺の三砦の守兵は撤退する。
『信長公記』に記載がないのは戦闘が行われなかったからではないか。
これは想像だが、撤退は信長の命令によらないものであり、
その兵の一部が中島砦、またはその付近に撤退したのではないか。
それが佐々・千秋の三百人である。
それならば、六分の一の戦死者の中に指揮官が二人とも含まれていたのも納得できる。
壮烈な討ち死にということで、武門の名誉とその家を守ったのである。
二日目の両砦の攻略も、義元の督戦のもとで簡単に成功した。
ただ、『三河物語』では、
その後に大高城の城番についての軍義が長引きいたという記述がある。
結局は、それまでの城番に代わって家康が大高城に入ることになるのだが、
そのために信長に反撃態勢を整える時間を与えてしまったというのだ。
それでも、義元の目から見れば、作戦に齟齬はなかった。
予定通り桶狭間山に着き、そこに陣を構える。
部隊の撤退も支障なく進んでいた。
正午ごろ、敵の中島砦に対応するため、前軍を北西に向かって配置する。
義元の軍事常識では、
高地に布陣した敵に向かって小勢で攻撃してくる馬鹿者はいないはずだった。
そこで、作戦成功を自ら祝って謡いを謡うのである。
そんなところへ佐々・千秋の三百人が突撃してくるが、
前軍によって一蹴されてしまう。
義元にとっては、「どうだ。見たことか」といったところだろう。
「わが矛先には天魔鬼神も耐えられまい」と自慢し、さらに謡いを謡う。
このとき義元は、織田の反撃も撃退したことだし、
これで作戦は終了したと思ったことだろう。
まさか同じ場所から再度の反撃があろうとは、
それも「隣にいてほしくない、凄まじい男」がやってくるとは、
夢にも思わなかったに違いない。
そこで、撤退を急がず、悠々と首実検などをしていたのである。
歴史に「たら・れば」はないのだが、
義元が作戦終了と思った時点で直ちに撤退を開始すれば、
おそらく、日本の歴史は変わっていたであろう。
信長の軍が中島砦から繰り出してきたのを見て、義元はどう思っただろうか。
ここで、実戦指揮の経験のなさが表れた。
義元がすべきだったのは、直ちに全軍による迎撃の命令である。
まだ人数的には敵に倍する兵力があり、
高所という地の利もある。
主将が断固として戦う意志を示せば、活路が開けた可能性はあった。
あるいは、そうしておいて、自分は馬廻りだけを連れて逃げてもよかった。
そうすれば、命だけは助かったであろう。
しかし、それでは武将としての名に傷がつく。
さりとて戦う決心もつかない。
負けるとは思わないが、絶対に勝つという自信もない。
軍議が長引いたことからすると、義元は即断の武将ではない。
反撃するか、撤退するか逡巡する。
そこへ突然の豪雨である。
「この雨では、織田もこれ以上攻めてきはすまい」と、思ったかもしれない。
雨は降り始めたときと同じように、突然と止む。
視界がもどったとき、目の前に現れたのは、朱の具足の信長親衛隊であった。
一斉射撃の轟音で、本陣の前衛はもろくも崩れ去る。
そこで、あわてて撤退を命じたが、すでに秩序ある撤退ではない。
何もかも打ち捨て、義元は本営千五百人に守られながら沓掛を目指して山を降りる。
しかし、すぐに信長の親衛隊に捕捉されてしまうのである。

鈴木銀


〔家康と信長〕

信長の親衛隊が義元の本陣に攻め込んだとき、家康は大高城にいた。

「この度の戦いで、家康は朱武者で先駆けし、
大高へ兵糧を運び入れ、鷲津・丸根では手を焼き、辛労だったので、
大高に陣をおいて人馬を休めていた。」

実は休息していたのではなく、大高城の新しい城番として入っていたのだが、
この記述で多少気になるのが、「朱武者」という言葉である。
「朱武者」は、信長の青年時代の記述にも出てくる。
信長の「うつけ」ぶりの描写の後で、
「悉く朱武者に仰せ付けられ」と書かれているのである。
つまり、「お付きの者の武具は全て朱色にさせて」いたのである。

義元の旗本との戦いのとき、
「然りと雖も、敵味方の武者、色は相まぎれず」という一文があるが、
それと二つの朱武者との間に何か関連があるかどうか。
深読みのしすぎと笑われそうだが、
『信長公記』は極端に言葉を節約しているので、どこに伏線があるのか、
どこに牛一の真意があるのか、深読み程度でちょうどいいと、わたしは思っている。
松平竹千代(家康)は、弘治元年(一五五五)三月、
十四歳で駿府の今川館において元服する。烏帽子親の役は今川義元が務めた。
その二年後の一月、家康は義元の姪築山殿と結婚し、今川の一門格となった。
この三年後が桶狭間の戦いとなるのだが、この間に家康に対し、
信長の働きかけはなかったのだろうか。
何の資料もないが、あったとわたしは推理する。
なぜなら、信長の行動パターンの一つに、
「役に立ちそうなことは何でも試してみる」というのがあるからだ。
家康とは前に一度会っており、そのとき相手をチャームしたという確信がある。
その相手に、謀略好きの信長が何もしなかったというのは、とても考えられない。
もっとも、その成果はゼロに等しかったであろう。
家康はまだ駿府にいて、一門格とはいえ人質状態が続いていたからである。
信長からのコンタクトが義元に知れたら、
それだけでも誅殺されかねない状況下にあった。
信長もコンタクトに当たっては、
秘密がもれないよう充分に気を遣っただろうと思われる。
ここで「家康は朱武者で先駆けし」という一節が浮かび上がる。
朱武者は、信長の親衛隊のいわば制服である。
なぜ、家康は朱武者となったのか。
朱武者となったのは家康だけなのか、
それとも家康直属の三河兵も全員そうしたのか、
それが明らかになる資料は残念ながらない。
しかし、家康の朱武者には、
信長に対する何らかの意思表示であったのではないかと、わたしは想像する。
義元の旗本との乱戦の中、「敵味方は色で識別できた」という一文がある。
太田牛一は『信長公記』を軍記読みのように読み聞かせたこともあるという。
そのためもあるのだろう、文章には非常にリズム感がある。
(わたしが口語の逐語訳を採用しなかったのは、
それだと原文のリズム感が全く失われてしまうからでもあった)
特に、桶狭間のこのくだりは山場であり、歯切れがいい。
ところが、「然りと雖も、敵味方の武者、色は相まぎれず」の一文は
その歯切れのよさを多少損なっている感じがする。
(全くの主観であるが)また、この文章がなければ、
この場の情景が分からないというわけでもない。
牛一が、ここに「色は相まぎれず」を入れたのはなぜか。
単に、後の信長・家康の同盟を暗示しているだけなのか。
それとも、何か伝えたいことがあったのか。
小説なら、十九日の払暁に家康からの密報が信長のもとに届き、
今川軍の作戦意図を報せたとでもするのだが、
さすがにそれは「想像」のしすぎであろうか。

家康が義元敗死の第一報を受けたのは十九日日没ごろであった。
当日の日没は七時半近くだから、
通説による部隊配置だったら信じられないほど遅い報せである。
しかし、義元撤退説なら、大高城と桶狭間の間には部隊としての今川軍はいないので、
報せが遅れても納得できる。
織田方に属する叔父の水野元信から早々に退去するように勧めがあった。
しかし、家康は確報が来るまでは動かなかった。
翌日、岡崎に移動。五月二十三日、今川勢が撤退するのを待って、
居城である岡崎城に帰還する。このとき、家康は「捨て城なら、拾っておこう」と、
いったという。
翌年四月上旬、信長は家康支配下の城に兵を送るが、
この戦いはまるで「出来レース」のような感じである。

「信長は三河梅ヶ坪(豊田市)の城に兵を派遣した。
敵を追い詰め、麦苗をなぎ払ったが、敵からも屈強の射手が出て厳しく守ったので、
足軽合戦となり、前野長兵衛が討ち死にした。
この戦いで、平井久右衛門がすばらしい弓を射たので、
城中からもこれを賞賛し、矢を送ってよこした。
信長も感嘆し、豹の皮の大うつぼ(矢を差して背に負う容器)と、
葦毛の馬を下賜した。」

この春、家康は信長とよしみを通じたという資料があるので、
このときには既に、家康は同盟を決意していたのだろう。
両軍から戦意というものがまるで伝わってこない戦いであった。
翌永禄五年(一五六二)一月十五日、家康は清洲城の信長を訪れ、
「清洲同盟(織徳同盟とも、尾三同盟とも呼ばれる)」が正式に成立する。
信長は、この同盟によって作戦対象を美濃に絞ることができたのである。
この翌年、信長の娘徳姫(五徳)と、家康の嫡男信康との婚約が調う。
実際に二人の結婚は四年後である。そのとき、二人とも九歳であった。
後年、信康が信長の命令によって自害させられることになるとは、
だれも予想だにしなかったに相違ない。

鈴木銀


『信長』は、前半の山場が終わったところ。
分量的にも、ほぼ半分というところ。

書きなおしが終わり次第、再度プレゼンする予定です。
あんまり最後まで日記に公開するのもどうかと思われるので、
そろそろ終わりにしようかと・・・。
もっと読みたいという希望が多ければ、考え直しますが・・・。

鈴木銀


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 鈴木銀一郎先生のゲーム研究記事一覧


[参考] 信長 第5章 【通説桶狭間の戦い】 鈴木銀一郎

鈴木銀一郎先生が、BBS「金羊亭」で、
織田信長の研究に関する記事を掲載していますので、ご案内します。


信長 第5章 通説桶狭間の戦い (2009年8月25日)

〔予定戦場における兵力の優勢〕

信長は村木砦を攻略したとき、すぐ報復があるものと覚悟していた。
やられたらやりかえす、というのが今川方のやり方だったからだ。
しかし、今川方に敏速な反応はなかった。
その後も、積極的な攻勢は見られない。今川軍の総帥ともいうべき太原雪斎が
「村木攻め」の翌年死亡したのが、大きく影響したのであろう。
雪斎に代わっては、義元が軍を指揮することになるが、
それに伴って体制も変えなくてはならない。
義元は、家督を長子氏真に譲り、駿河・遠江の統治を委ねている。
自身は、三河に常駐し、尾張への侵攻の指揮をとるつもりであろう。
「次は、義元による本格的な侵攻になる」
そう信長は信じていた。
信長の最大動員力は七千から八千。
ただし、全てを戦場に投入できるわけでない。
美濃の斉藤義龍への備えが必要だし、国内各地の城にも守兵を置かなければならない。
せいぜい三千から五千というところだろう。
それに対して義元の動員数は三万近い。
尾張侵攻に投入できるのは二万から二万五千である。
五千と二万五千が平滑地で戦ったら、万に一つも勝ち目はない。
そういう戦いに持ち込ませないためにはどうしたらよいか。
信長が打った手は、知多半島の北部にまで進出した鳴海城と、
大高城に対し付け城を築くことであった。

「鳴海城は、南は黒末川(天白川)の河口で入海につながり、
潮の満ち引きが城の下まで及んでいる。
東は谷続きで、西は深田である。
北から東は山が続いている。
信長は、城から二十町離れて丹下という古屋敷があるのを砦に構え、
水野帯刀、山口海老丞ほかを配置した。
東には善照寺という旧跡がある。要害の地であり、
佐久間右衛門尉信盛、弟左京助を配置。
南中島という小村があるのを砦にして、梶川平左衛門を配置した。
黒末の入海の対岸に、鳴海・大高の連絡を絶つように、
砦を二つつくり、丸根山に佐久間大学を配置し、
鷲津山には織田玄蕃、飯尾近江守親子を配置した。」

当時、敵の城砦の活動を制約するために、
その近くに付け城という拠点を構築するのは一つの常識であった。
ただ、大高城の付け城には特別な意味があった。
それは、大高城の補給路を断つということである。
大高城の兵糧が不足すれば、兵糧運び込みのための援軍を送らなくてはならない。
それが本格的な侵攻のときと重なれば、兵力の分散につながることになるであろう。
さらに、大高城は尾張領に深く入り込んでいるので、
そこへ一部隊を割くことは、その後備も考えなければならず、
戦線が伸びて、側面攻撃に弱くなる。
(鳴海城はその下まで潮が満ちるので、
水軍をもつ今川勢に対して補給路を絶つ作戦は無意味であった)
信長が狙ったのは、正にその一点だったのである。
将軍が勝つために考えなければならないのは、
まず「予定戦場における兵力の優勢」である。
つまり、戦場がどこになるかを予測し、戦いが始まる時点までに、
そこに相手より優勢な兵力を送り込むということである。
あるいは、もっと積極的に、戦いの場を相手に強要し、
そこでの優勢を確保するという作戦もある。
ここでいう「兵力」とは、単に兵の数ということではない。
武器、士気、練度、下級指揮官の能力などを総合した戦力のことである。
信長が指揮する親衛隊は今では二千近くに達している。
練度や、士気の低い五千人の農民兵なら、粉砕できるだけの力があると、
信長は自信をもっていた。
その戦力を伸びきった敵の戦線の薄いところにぶつけ、その敵を敗走させる。
兵というものは、後続の部隊が敗走したことを知ると、
退路を絶たれると思い、士気が低下する。
場合によってはいっせいに退却を始めることさえある。
信長は義元を討ち取れるとは思っていなかった。
ただ、長く伸びた敵の戦線のどこかを食いちぎれば、勝負になると思っていた。
つまり、相手は撤退を始め、戦いを勝負なしに持ち込めると考えていたのである。
そして、自分が育てた親衛隊なら一部分を食いちぎれると信じていた。
今川義元も、当然、「予定戦場における兵力の優勢」という原則は知っていただろう。
太原雪斎の基本的な戦術がそうだからである。
しかし、義元には前線指揮官としての経験が不足していた。
そのため、「予定戦場」の真の意味を知らない。
「戦いの中心」が移動する可能性に思いが至っていない。
そこで、戦場全体の数の優勢で満足していたのである。
 義元が取るべきであった作戦は、二万五千の兵が展開できる平滑地を選び、
ゆるゆるとでもいいから連携を保って進撃することであった。
そうすれば、信長は手も足も出ずに敗れ去ったことだろう。
大高城がいくら兵糧不足を訴えても、二日や、三日待たせておけばよかったのである。
いざ戦いが始まれば、「予定戦場」はなくなり、代わって「戦いの中心」が発生する。
将軍、または前線指揮官は、常に戦いの様相を把握し、
戦いの中心に戦力を投入して「兵力の優勢」を保持し続けなければならない。
戦いは常に変化する。その変化に対応できなければ、
たちまち遊軍が生じ、二万五千はあっという間に五千になり、
千になってしまうのである。
以下、その視点で桶狭間の戦いを検証してみよう。

鈴木銀


〔合戦前日まで〕

永禄三年(一五六〇)五月十二日、
今川義元は二万五千の兵を率いて駿府(静岡市)を出陣した。
かつては、義元の目的は上洛し、天下に号令を発するためとされたが、
現在では、そんな説を唱える人はいない。
今川軍の主力は依然として農民兵である。
京にいつまでも居座っているわけにはいかないのである。
ただし、今川としては久しぶりの軍事行動であり、
義元にしてみれば充分すぎるほど準備した上での出陣であったと思われる。
それは、陸戦が主である戦いなのに、
津島西南のうぐい浦の服部水軍をわざわざ呼び寄せてもいることでも分かる。
織田家のお膝元の津島のすぐ近くの水軍が今川方についたことだけでも、
義元の勢威を感じることができる。
侵攻の主目的は具体的には分からないが、
かなり大きな構想をもっていたことであろう。
五月十七日、義元は沓掛城(豊明市)に入り、諸将を集めて命令を下した。
大高城への兵糧入れは、その付け城である鷲津・丸根の両砦の攻撃とともに、
侵攻の初期目的に決まった。
つまり、ここまでは信長の描いた設計図の通りになったのである。
しかし、それを信長はまだ知らない。
十八日夕刻、鷲津・丸根両砦から、翌朝の攻撃は必至という報せが入るが、
それでも動かない。

「その夜の話にも軍議については全く出なかった。
いろいろな世間話のあと、信長は『もう夜も更けたので、みんなも帰るがいい』
といった。
家老衆は、『運が傾くときは知恵の鏡も曇るというが、全くその通りだ』
とそれぞれに信長をけなしながら帰宅した。」

信長にしては、まだ動くわけにはいかなかった。
どうやら狙い通り鷲津・丸根を攻撃してくるようだが、戦いというのは、
どう動くか分からない。早まって出動すれば、それが敵に知れ、
作戦を変更される可能性があるからだ。
(前年の上洛が斉藤方に筒抜けになっていたことを思い出していただきたい)
また、家臣たちに自分の作戦を示すこともできない。
あまりにも未定の要素が多いからである。
信長の作戦は、敵に鷲津・丸根に攻撃させ、
戦力を分散させることが前提になっている。
その上で、敵の側面のどこかを衝くというものである。
そのどこかは、前線に出てみなければ分からない。
側面のどこかを衝いて、その結果どうなるかも分からない。
家臣にしてみれば、そんなに分からないことだらけでは、
とても作戦とは認めないだろう。
さらに、信長の作戦では、
鷲津・丸根の両砦は敵の大部隊を引きつけるための囮である。
そんなことを、たくさんの家臣の前ではっきりいうわけにはいかないではないか。
指揮官の資質の一つに、部下の損害にどのくらい耐えられるかということがある。
特に、司令部との連絡が途絶え、全ての権限と責任が委ねられたようなとき、
この資質が重要になってくる。戦死者の一人一人に心が痛み、
苦しむ負傷者のうめきは胸を刺す。
そんなとき、耐えられない指揮官は早めに降伏や、撤退をしてしまうのだ。
信長は、(部下の死に涙を流すかもしれないが)耐えられる指揮官であったと、
わたしは考えている。鷲津・丸根の両砦は、あえて見殺しにしたと想像する。

その夜、松平元康(家康)は、大高城への兵糧入れに成功する。
翌十九日夜明け方、鷲津・丸根砦からの急使によって、
敵が両砦への攻撃を開始したという報せが入る。
これで、敵の作戦変更はなくなった。
次は、「予定戦場」への速やかな進出である。
このとき、信長は幸若舞『敦盛』を口ずさみながら舞う。

「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり
ひと度生を受けて、滅せぬ者のあるべきか」

舞い終わると、信長は叫ぶ。

「『ほら貝を吹け。具足を持て』
物の具をつけ、立ったまま湯漬けを食らい、鎧を着用し、馬に乗る。
このとき、つき従ったのは前田利家の弟である佐脇良之ほかの小姓衆五騎のみ。
主従六騎は熱田まで三里を一刻で駆けた。」

鈴木銀


〔予定戦場の決定〕

「午前八時前、熱田神宮の源太夫宮の前から東を見ると、
鷲津・丸根両砦が落ちたとみえて煙が上がっている。
このとき、雑兵二百人が追いついていた。」

『信長公記』にはないが、信長は熱田神宮に戦勝祈願を行っている。
『甫庵信長記』には、その願文が載っているが、なかなかの名文である。
願文にはヤマトタケルの名はあるが、スサノオの名はない。
しかし、信長は心を込めてスサノオに祈ったことだろう。

「熱田から海岸沿いに進もうとしたが、潮が満ちていて馬が通れない。
そこで山手側の細い道をひしめき合いながら駆け、まず、丹下砦に出た。
次いで、佐久間信盛が布陣していた善照寺砦に進み、
そこで兵がそろうのを待ち、敵状を観察した。
敵、今川義元は四万五千の兵を率い、桶狭間山で人馬の息を休めていた。」

昔は田楽狭間という窪地に布陣していたという説が一般的だったが、
現在では『信長公記』の通りに桶狭間山に布陣していたとされる。
ただし、このあたりは低い丘陵地帯で、
「桶狭間山」を特定するのはむずかしいらしい。
桶狭間の近くにある丘の一つが桶狭間山だったのであろう。
四万五千というのは明らかに多すぎる。
これは義元出陣の際の公式発表をそのまま記載したのであろう。
義元が率いたのは二万五千という説が最も多い。
そのうちのかなりの人数が鷲津・丸根の攻撃に振り向けられ、
本隊の後備、兵站部隊などを考えれば、本陣近くは五千人程度であろう。
ただ、義元軍の細かい配置についての資料はない。

「正午ごろ、義元は北西に向かって部隊を配置した。」

桶狭間山から北西の方向二・五キロメートルほどのところに中島砦があり、
見晴らしのきく場所からはよく見える。
その間は浅い谷あいである。
北西に向かって配置した部隊というのは、この中島砦に備えたものであろう。
藤本正行氏は『信長の戦争』で、この部隊に「前軍」という名称を与えている。
以後、この部隊(今川本隊の前方で織田軍に備えた部隊)を前軍と呼ぶ本が多いので、
ここでもそうしておく。
原文では「人数を備え」とあるので、前軍は攻撃部隊ではなく、
本陣防御のためのものだと分かる。
そうだとすれば、斜面に配置したのであろう。
戦いは、高みにいた方が有利というのが常識だからだ。

「このとき、義元は、鷲津・丸根を攻め落としたので満足はこの上ないといって、
謡いを三番謡ったという。」

義元が戦陣に出て指揮をとるのは十年ぶり以上のことである。
戦場勘というものがあるとするなら、義元のそれは錆びついていたに違いない。
鷲津・丸根は今回の侵攻の初期目的にすぎない。
織田軍の主力とはまだ交戦もしていない段階である。
そういう状況で主将が満足しては、部下に緊張感を失わせ、
油断させることになるからだ。

「信長が善照寺砦に来たのを見て、
佐々隼人正、千秋四郎の二人が率いる三百人あまりが義元勢に向かって突進した。
敵もどっとかかってきて、
その槍下で千秋四郎、佐々隼人正ほか五十人ばかりが討ち死にした。
義元はそれを見て、わが矛先には天魔鬼神も耐えられまい、
いい心地であると喜び、すっかりくつろいだ感じで謡を謡い、
陣を動かす気配はなかった。」

この突進が陽動作戦なのか、抜け駆けなのかは意見が分かれている。
桶狭間の勝利が奇襲であるなら抜け駆けに違いないが、今は強襲とされている。
強襲であるなら、抜け駆けとするには少し躊躇する。
善照寺砦まで来たが、信長は、どこを攻撃すべきなのかまだ判断がつきかねている。
中島砦に進出して、そこから攻撃を開始すべきか。
それとも、さらに東に進むべきか。
(それは、かつて陸軍参謀本部が考えた信長の進軍ルートである)
谷を隔てた南東の斜面には敵がいるようだが、
どのくらいの数がいるのか分からない。
そこで、人数がほぼそろうのを待って、「信長ここにあり」という旗印を立てる。
その旗印を見て、三百人の兵が突進したというのである。
三百人という兵は一つの戦力である。
抜け駆け説が正しいなら、
それが信長の命令によらず集合していたということ自体が疑わしい。
しかも、信長の作戦というものは、まだだれも知らない。
善照寺に進出するかどうか、それすら事前には分かっていない。
それなのに、どうしてそこに三百人もの兵がいたのか。
その兵は中島砦にいたと考えるのが、最も自然であろう。
中島砦から突撃してきた敵を見て、その人数が少なかったので前軍が迎撃した。
戦いは圧勝で、「義元はそれを見て」、
織田の反撃とはこんな程度かと侮ったことだろう。
この後、佐々・千秋隊の生き残りが敵の首を持って信長の前に現れるのだが、
その中に前田犬千代(利家)がいた。
利家は信長の小姓であり、男色関係もあったとされている。
二年前、拾阿弥という同朋衆を斬殺し、信長に勘当されていた。
手柄を立て、信長に帰参を願うため、とりあえず最前線で待っていたのであろう。
いうまでもないことだが、「抜け駆け」はどの大名の軍律でも御法度である。
まして、信長軍ではそれが厳しく運用されていたであろう。
軍律違反の抜け駆けに参加して、
それで帰参が叶うとは、利家も考えなかったであろう。
どうも理解しにくい突撃なのである。
結局、前田利家の帰参は叶わなかった。
翌年、斉藤氏との戦いで「頸取り足立」と呼ばれる豪の者を討ち取って、
やっと許されたのである。

「信長は戦いの様子を見て、中島砦へ移動すると命令を下した。
家老たちは、『中島への道は深田の中で、一人ずつしか通れません。
敵からは丸見えで、こちらが少数なのが分かってしまいます。
何の得にもなりません』と、馬の轡の引き手にすがって、
口々にとめたが、それを振り切って中島へ移動した。
そして、中島からの攻撃を命令した。」

信長は前軍の人数を見て、これなら破れると判断し、
ここを「戦場の中心」にすることに決めた。
不思議なのは、義元には、初期目的を達した後の第二次作戦計画というものが
なかったように思われることである。
鷲津・丸根の攻撃部隊が第二次の作戦行動を起こしたという形跡はない。
鷲津・丸根の攻撃部隊は、とりあえず今日の仕事は終わったということで、
のんびりしていたとしか思えないのである。
家康も、このとき大高で人馬を休めていた。
義元は暗愚の将ではない。
中島砦に対しても、朝のうちに物見(偵察)の兵を送っていただろう。
その報告を聞いて、ここが「戦いの中心」ではないと判断した。
その判断は正しかった。
善照寺から中島への兵の移動を見ても、
前軍に敗れた砦の兵への補充くらいにしか考えなかったろう。
今川軍は東西に長く伸び、とっさの命令が各部隊には届かない。
しかし、戦いの様相は一瞬で変わる。
信長が、ここを「戦いの中心」にすると決意したからである。
信長の攻撃命令を、家老たちは無理にでも止めようとする。
家老たちは、四万五千といわれる今川の数におびえているのである。
ここで信長は檄を飛ばす。

「みんな、よく聞くのだ。
あそこにいる敵は前の晩に兵糧をとったきりで、夜通し歩いて来た。
大高に兵糧を入れ、鷲津・丸根では手を焼き、疲れ果てている連中だ。
それに引きかえ、こちらは新手である。
『小軍にして大敵を恐れることなかれ、運は天にあり』という言葉を思い出せ。
いいか、敵がかかってきたら引け、退いたらそこに付け入れ。
そうすれば、敵をねじり倒し、敗走させるのはたやすい。
分捕りはするな。打ち捨てにせよ。
この戦に勝てば、参加していただけで家の面目であり、末代までの高名であるぞ。
ただただ、力を尽くして戦え。」

目の前の敵が鷲津・丸根の戦いに参加していないことは、
信長にも分かっていたはずだ。
士気を鼓舞するために、疲れ果てているぞ、といったのであろう。
しかし、親衛隊の兵士たちは、信長が例の大音声で自信たっぷりに語りかければ、
その気になる。
そこへ、先ほどの戦闘で首をとった武者たちがやって来た。
(その中に前田利家もいた)
信長はその者たちへも今いったことを伝えた。
そして、「戦いの中心」は動き始める。

鈴木銀


〔決戦〕

『信長公記』には、前軍との戦いについて記述がない。
そこで、激しい戦闘はなかったと推察する。
おそらく、中島砦から押し出してきたのが思ったより多勢であり、
しかも大量の鉄砲を撃ちかけながら向かってきたので、
あわてて本来の場所である桶狭間山の斜面に撤退したのであろう。
信長軍二千が山際まで進んだとき、突然、激しい雨が降ってきた。

「にわかな村雨である。斜面を登っていくと、敵の面には石氷のように打ちつける。
味方には追い風である。
沓掛峠の松の根元に、二かかえも、
三かかえもあろうかという楠木がこの風雨で東に向かって倒れた。
それを見た者は、あまりの出来事に、
熱田大明神も戦に加わっているに違いないといった。」

原文には、信長軍が斜面を登ったという記述はない。
そこで、雨の間は進撃を控えていたという解釈も多い。
しかし、「敵の面に打ちつける」とか、「味方には追い風である」という表現は、
味方の動きがあってこそ、ぴったりする。
そこで、信長軍は進撃を止めず、斜面を登っていったと解釈した。
敵は目も開いていられない状態である。
防戦しようとする者はたちまち突き伏せられただろう。
それを見て、逃げ出す者が続出する。
戦いというほどのことはなく、信長軍は登り続ける。
この豪雨の間、義元とその本陣にとって時間は停止していた。
大体、当時は大雨なら合戦はなしとしたものである。
豪雨となったので、多くの兵士は「やれやれ、これで今日の戦は終わったか」と思い、
近くの木陰で雨宿りしたことだろう。
前軍の兵たちが敗走してきても、だれも注意を払おうとしない。
主将がくつろいでしまったので、兵士たちから緊張感が失われていたのである。
その間にも、「戦いの中心」はどんどん近づいてきている。
それを、だれも気がついていない。いや、気がつこうとしない。
報告も入らない。命令も出せない。
義元の本陣五千、すでに孤軍である。
時間は信長方にだけ存在していた。
豪雨の間、信長軍は義元の本陣のすぐ近くまで進出する。
多少の小競り合いくらいはあっただろう。
戦なれしている信長の親衛隊は、敵陣近くなのを覚り、
すぐに攻撃態勢を組み、命令を待つ。
雨は降り始めと同じように、突然止んだ。
視界が回復すると、今川軍は敵がすぐそこにいるのを知った。
どうしてそんなことになっているのか、だれにも分からない。
ともかく、あわてて陣形をつくろうとする。
そのとき、すさまじい轟音が鳴り響いた。

「信長は槍を取り『すわ、かかれ、かかれ』と大音声で命じた。
鉄砲で一斉射撃し、突撃すると、敵はいっせいに崩れ、敗走した」

ここには大きな意訳がある。
原文は「黒煙立てて懸かるを見て、水をまくるが如く、
後ろへくはっと崩れたり」である。
「黒煙立てて」の「黒煙」とは何か。
豪雨が止んだ直後、煙が上がるのは不自然ではないか。
比喩的な表現なら「~が如く」と書くので、
あくまで視覚的に煙が上がったのであろう。
雨上がりなので、馬が立てる土煙とも思えない。
『甫庵信長記』を見ると、
そこでも、「真黒に黒煙を立て喚き叫んで馬を入れ」とある。
当時の人にはそれでよく分かったのであろう。
念のため『信長公記』を通読したら、
もう一か所だけ黒煙の立っているところがあった。
姉川の戦いである。
「散々に入りみだれ、黒煙立て、しのぎをけづり、鍔をわり」とある。
姉川の戦いは、狭い川をはさんでの戦いである。
何かに火を点けている暇はなかったであろう。
どう考えても、鉄砲の黒色火薬が上げる煙としか解釈できない。
信長軍といえども、強い雨の中での鉄砲の射撃はできない。
火縄の火が消えてしまうからである。
しかし、使用はできないが、火縄の火を保つ工夫はできていた。
それに対し、桶狭間の戦いのとき、今川軍にはまだ鉄砲の実戦配備はない。
あったにしても、大将格のところにお飾りのように置かれていたに過ぎなかった。
しかし、兵士たちは鉄砲という新兵器のことはよく聞いていた。
兵士というものは、じぶんたちが持っていない新兵器については、
過大評価する傾向がある。
弓の倍の射程距離をもち、具足も貫通してしまう威力がある。
すさまじい轟音とともに黒煙が上がる。
「やっ、鉄砲だ」と思った次の瞬間、敵が喚声を上げて突っ込んでくるのが目に入る。
恐怖にかられない方がおかしいというものだ。
かりにも、義元の本陣にいる兵である。弱兵ではなかったに違いない。
それがいっせいに崩れたのは、恐怖にかられたと思うしかない。
ここからは、追撃戦になる。

「弓、鎗、鉄砲、のぼり、指し物が散乱して捨てられている。
義元の塗り輿も捨てて敗走したのである。」

その塗り輿を見て、やっと、信長は義元の本陣を壊走させたのだと知る。

「『敵の旗本はここだ。ここへかかれ』と、信長は命じる。
午後二時のことである。東に逃げる義元の本陣に攻撃が開始された。
義元の旗本は初めは三百騎あまりが輪をつくり、
義元を中に囲んで退いていたが、二度三度、四度五度と繰り返し攻撃を続けるうちに、
しだいに数が減り、最後には五十騎ばかりになってしまった。
信長も馬を下り、若武者たちと先を争い、敵を突き伏せ、突き倒した。
血気にはやる若者たちも、負けじと乱れかかり、
しのぎを削り、鍔を割り、火花を散らし、火炎をふらす。
ただ、乱戦といっても(信長の親衛隊は赤備えなので)、敵味方は色で識別できた。
この戦いで、馬廻り、小姓衆に負傷者、死者が続出した。
服部小兵太は義元に打ちかかったが、膝口を斬られて倒れた。
毛利新介が、義元を切り伏せ、首を取った。」

毛利新介が義元を討ち取ったとき、義元は新介の人差し指に噛み付き、
その骨まで砕いたという。よほど無念であったに違いない。
実質的な戦いはこれで終わった。これからは掃討戦である。

「桶狭間というところは、土地が低く入りこんで、深田に足を取られ、
草木が高く低く茂って、この上ない難所である。
深田へ逃げ込んだ敵兵が、そこから出られずはいずり回っているところを、
若者たちが追いつき追いつき、二つ三つと、
てんでに首を取って信長の前にやってきた。
信長は、首実検は清洲にて行うと宣言し、
義元の首だけを見て満足した様子だった。」

信長は、馬の先に義元の首をつり下げ、もと来た道を帰る。
帰路は急いだので、陽のあるうちに清洲に到着した。
翌日の首実験では、その数三千に達したという。
義元の首は、生け捕りにした義元の同朋衆の一人に持たせ、
僧侶十人をつけて駿府に送り返した。
また、清洲から二キロメートルほど南の熱田に通じる街道に、
義元塚を築いて、大きな卒塔婆を立て、供養のため千部経を読ませたという。

桶狭間の戦いで、信長は確かに運に恵まれていた。
しかし、運だけの勝利ではなかった。
常備兵、長鑓、鉄砲というこれまでの常識にないコンセプトで、兵の質を強化した。
その兵を利用して、いかに「予定戦場における兵力の優勢」を実現するかを考え出し、
敵がその策に乗ったのを確認すると、これまた常識を超えたスピードで行動した。
そして、「戦いの中心」を敵の予期しない場所に出現させて、勝利を収めたのである。
奇襲の要素は一つもなかった。
あくまでも、兵力の優勢を貫いた強襲であった。
ただし、今川義元にとっては奇襲そのものだったであろう。
さらに、その勝利には運が加担し、義元の首というボーナスがついていた。
勝つべくして勝ったのだが、勝利の度合いは、正に奇跡であったといえよう。

鈴木銀



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[参考] 信長 第4章 【信長は嫡男ではなかった】 鈴木銀一郎

鈴木銀一郎先生が、BBS「金羊亭」で、
織田信長の研究に関する記事を掲載していますので、ご案内します。


信長 第4章 信長は嫡男ではなかった (2009年8月24日)

〔信長のTPO〕

信長の着るものの好みを見ると、派手好き、
目立ちたがりであることは異論がないであろう。
ただ、単なる目立ちたがりではない。
その場その場の状況を考え、
自分の服装が与える効果をきちんと計算しているのである。
その最もよい例が、有名な舅斉藤道三との対面の場である。
父信秀の死から二年後の天文二十二年(一五五三)四月、
斉藤道三から富田の正徳寺(一宮市)で信長と対面したいという申し入れがあった。

この年の閏一月、道三の娘の輿入れに尽力した平手政秀が所領である志賀村
(名古屋市)の屋敷で突然自殺するという事件が起こる。
政秀は、織田家第二の重臣で、勘定方を務めていた。
信長の幼いときからの傅役で、
斉藤道三の娘との婚儀も政秀がお膳立てをしたとされる。
『信長公記』は次のように記している。

「平手政秀は信長の性質の真面目でないことを悔やみ、
『これまで守り立ててきたのに、これでは生きていても仕方がない』として、
腹を切って死んでしまった」

昔はこれを「諫死」として政秀の忠義を褒め称えていたが、
今はそうとる人はほとんどいない。時期は不明だが、
この前に政秀の長男と信長が不和になった話があるからである。

「平手政秀の長男五郎右衛門はすぐれた駿馬をもっていた。
信長がそれを所望したところ、憎々しげないい方で
『わたしは武者でございますので、
よい馬を手放すことはできません。お許しください』
と断った。
信長はこれを根にもち、たびたび思い出しては不愉快な思いにさせられた。
こうして主従の間はしだいに不和になっていった」

現在は、この不和が政秀自害の遠因になっているという説が多い。
主君と不和になったことで、政秀は平手家の存続を危ぶみ、
自分が死んでわびを入れたというのである。
わたしも大体同じように考えてはいる。
だが、この自殺には、信長がもっと積極的にからんでいたと想像する。
政秀が息子について謝罪したとき、信長は恫喝し、
自殺に追いやったと思っているのである。
平手政秀は織田家の勘定奉行をつとめていたが、
信長はその職を政秀からどうしても取り上げたかった。
その理由は平手家の財力である。
天文二年(一五三三)、京都の公卿飛鳥井雅綱と、山科言継は、
朝廷から和歌と蹴鞠の指導を名目に尾張下向の許可を得て、
七月八日に信秀の居城勝幡城に到着した。
それから約四十日間尾張に滞在して、信秀や家臣たちに歓待され、
指導料もたっぷりと稼いでいった。その間に平手政秀の屋敷も訪れるが、
言継はその数寄をこらした豪華な造作に驚き、日記に残しているのである。
家老の身でそのような豪華な建築が行えたのは、
政秀が勘定奉行であったからこそ可能なことであった。
これは政秀が不正蓄財を行っていたという意味ではない。
当時の勘定奉行は請負制が普通で、その場合は主君に契約した額を納入すれば、
残りは自由にしてよかったのである。
当時の織田家は、伊勢湾水運の要である津島と熱田の二つの港を支配していた。
この二つの港から得られる税収は莫大なものであった。
天文十年(一五四一)、信秀は外宮仮殿造営費用として四千貫を朝廷に献上した。
さらに翌年、築地修理費として四千貫を朝廷に献上した。
この四千貫がどのくらいの価値があったか、
現代に換算するのは米の相対的な価格が違うのでむずかしい。
わたしは戦国シミュレーションゲームをデザインしたとき、
「十万石とは何か」というモデルをつくってみた。
つまり、ある大名が十万石という領地を支配していたとすると、
その人口、租税収入、兵士の動員力などはどのくらいになるのか、
式で導かれるようにしたのである。
その式に当てはめると、
四千貫とは二万五千石の領地の一年間の租税収入にほぼ等しいことになる。
(これはあくまでもモデルであり、実際はそのときの貨幣価値によって変動する)
そのように裕福だった織田家だから、
政秀は京都の公家が驚く数寄をこらした豪邸を建築できたのである。

信長は、やがて来る今川勢との対決のために、
強力な軍事力をつくらねばならなかった。
信長の直属部隊は全て常備兵である。
当時の武士は原則として農民兵であった。
平時は農村の自分の家に住み、農業に従事している。
武器をとり、兵士となるのは、主君から動員がかかったときだけであった。
だから、合戦をしかけるのは農閑期に限られていた。
それに対し、信長の直属兵は城内か城の近くに住み、生活費が支給される。
また、武器も農民兵は自前であるのに、常備兵は支給しなければならない。
農民兵に比べると、常備兵は金がやたらとかかるのである。
その代わりのメリットとして、常備兵は戦闘訓練を積むことができたし、
農繁期にも合戦を挑むことができた。
信長は、また、新兵器の鉄砲を大量に配備しようとしていた。
金はいくらあっても足りなかったろう。
そんなときに、家臣があり余る財力をもち、
豪華な邸宅を構えているのは我慢できないことだったに違いない。
後の信長なら、命令によってさっさと勘定奉行の職を取り上げることもできた。
しかし、天文二十二年(一五五三)の時点では、林兄弟も健在であり、
まだそれだけの権力はなかった。
そこで、息子との不和にかこつけて恫喝し、政秀を死に追いやった。
そう想像するのである。
政秀の死後、さすがの信長も寝覚めがわるかったのだろう。
供養のために政秀寺という一寺を建立し、その住職に沢彦宗恩を招いている。
ただし、政秀の三人の息子たちが重用されたという記録はない。

斉藤道三は、いったい織田家の当主となった信長とはどんな男なのか、
それを自分の目で見極めようと思ったのであろう。
その上で、尾張に対する戦略方針を決めようとした。
もちろん、その選択肢の中には、尾張侵攻も含まれていたに違いない。
信長はためらうことなく、この申し出を受けた。

「斉藤道三の考えていたのは、
信長がふざけたかっこうをしているという評判なので、
びっくりさせ、嘲笑してやろうということだった。
そこで、古老の者七、八百に折り目正しい肩衣、袴など品のよい衣裳を着せ、
正徳寺の御堂の縁に並んで座らせ、信長がその前を通るように準備した。
そうしておいて、町外れの小屋に忍んで、やってくる信長の姿をのぞき見した。
この日の信長のいでたちは、髪は茶せん髷で、
もとどりを萌黄色の平打ちひもで巻き、湯帷子の袖を外し、
熨斗つきの太刀と脇差はどちらも長い柄をわら縄で巻き、太い麻縄を腕輪にし、
腰の周りには猿回しのように、火打ち袋や、ひょうたんを七つ、八つもつけ、
虎皮・豹皮で前後左右のだんだら仕立ての半袴を着ていた。」

普段の町中でのくだけたかっこうそのままといえるが、
ちゃんと舅殿に敬意を表して(?)、より高価なものを身につけている。
太刀は、普段は朱鞘だが、この日は金銀を張りつけたものだ。
はかまは虎皮と豹皮という輸入素材を用い、
しかも前後左右どこから見てもその両方が見えるという凝った仕立てにした。
そのファッションセンスは現代にも通じるといえるだろう。
全体としてはバサラ調だが、湯帷子の袖を外して着たり、麻縄を腕輪にしたりと、
荒々しさも演出している。
道三ほどの男なら、
「この男はばかなんかではない」とひと目で見抜いたのではないか。

「この日の行列はというと、まず屈強な足軽が先駆け、先触れをし、
その後ろに七、八百人が整然と隊伍を組み、
中央に信長、最後に三間半の朱塗りの長鑓衆が五百人、弓・鉄砲衆の五百人が続いた」

当時の鑓は二間(三・六四メートル)か、二間半(四・五五メートル)であった。
それを信長は三間半(六・三七メートル)にし、親衛隊に持たせたのである。
その長さの差とはどんなものだったのか。
当時の合戦は、まず百メートルほど隔てた弓戦から始まる。
次に、頃合いを見て槍足軽が鑓を揃えて突撃し、鑓対鑓の戦いになる。
双方の鑓の長さが同じなら、相手を突ける距離に入れば、
当然、自分も突かれる距離にいるということである。
そこで、最後の数歩を踏み出すときには、相当の逡巡があるはずだ。
双方の勢いに懸絶したものがない限り、
実際に槍戦が始まるまでは、
数メートルを隔てた対峙が続くというのが常態であったろう。
そこを、だれかが決意して最初に敵陣に向けて突進する。
それにつられて他の者も走り出して白兵戦となるのである。
このとき最初に突進した者が、功名第一に挙げられる「一番槍」である。
しかし、長さに二メートル近い差があれば、敵を射程距離に置いても、
自分はまだ射程外にいる。全員が「一番槍」となる可能性があるのである。
ただし、武芸の心得のある友人に聞いたら、
「そんなの簡単に払えますよ」ということだった。
長い槍で突いてきても、それを払って逆に相手の懐に入ってしまうというのである。
信長も当然それを知っていた。
その上で、親衛隊を短い槍と長い槍とに分け、
実戦演習を繰り返して対応策を見つけ出していたのである。
それは、突くのではなく、上から叩き下ろし、下から撥ね上げるというものだった。
これなら、突く場合より払われる可能性は低くなるのではないかと思われる。
さらに、突いた場合には、必ず「引く」という動作が必要になる。
それでないと、次の「突き」に入れない。
しかし、叩き下ろした場合は、
それが次の「撥ね上げ」の動作の準備完了となるのである。
防具というのは、だいたい下からの「撥ね上げ」には弱いものである。
鑓の穂先がうまく相手の足の間に入れば、
日本の具足の弱点である股間にダメージを与えることになろう。信長のことだ。
「いいか、金玉を狙え、金玉を」
くらいのことをいって、兵士たちをどっとこさせたに違いない。
武術に詳しい友人は、半数が鑓を突き出し、半数が叩くという戦法を提案してきた。
いずれにせよ、信長は演習によって最適の戦闘ドクトリンを決定していたのだろう。
 それにプラス常備兵の強みが加わる。
長鑓隊の第一線には三間半の鑓でも楽に操れる力のある者を選び、
それを実戦さながらの訓練で鍛え上げていった。
その戦闘ドクトリンまで含めて考えれば、
「三間間中柄」の鑓は正に新兵器そのものであったといえよう。
ときどき、どうしてほかの国は真似しなかったのかという疑問を目にすることがある。
それは、ハードは簡単に作れても、ソフトが真似できなかったからである。
三間半の鑓は、訓練を受けていない農民兵にはとても扱える代物ではなかったのだ。
さらに、信長の親衛隊の強さの理由をもう一つ付け加えておこう。
前述した「村木砦の攻撃」の戦闘後について、『信長公記』はこう記述する。

「信長の小姓衆も多数の死傷者が出て、目も当てられぬ有様だった。
朝の八時過ぎから、夕方の五時近くまで攻め続け、目的は果たすことができた。
信長は本陣で報告を聞き、あいつも死んだか、こいつもそうかといって涙を流した」

大名クラスの武将が、足軽たちの名を知っていることはまずなかったろう。
信長は親衛隊のメンバーの名を知っており、戦死者のために涙を流したのである。
その姿を見て、「この殿様のためなら」と、だれしも思ったことであろう。

さて、行列の最後は、弓・鉄砲で五百が続く。
ひとまとめにしてあるので、鉄砲の数は大したものではなかったと推察する。
主力はまだ弓の時代である。
せいぜい五十丁、多くても百丁というところだろう。
ただし、たとえ五十丁であっても、
それは美濃衆にとっては驚くべき数だったに違いない。

「正徳寺に着くと、信長は控えの間に屏風を立て巡らし、その中に入る。
そこで生まれて初めて髪を折り曲げに結い、
だれも知らないうちに染めておいた褐色の長袴をつけ、
これもいつ用意しておいたのか、儀礼用の短い刀を帯びた。
屏風から現れた姿を見て、道三の家中は
『さては先ほどのたわけぶりはわざとしていたのか』と驚き、
やっと事情を理解した」

たとえ正装するにせよ、最初に噂通りの「うつけ」姿を見せておけば、
その効果は比べものにならないほど絶大なものになる。
信長の計算の確かさと、したたかさがうかがえるではないか。

鈴木銀


〔信長と道三〕

道三との会見の場である。

「信長は会見が行われる御堂にするすると進む。
縁側に上がったところで、道三の家老の堀田道空が迎え、
『お早くお座敷にお出でくださいませ』
といった。
信長は、居並ぶ道三の家中に目もくれず、前をするすると通り、縁の柱に寄りかかる。
しばらくあって、道三が奥の屏風を押しのけて姿を現した。
それでも、信長は知らん顔のままである。
たまりかねた堀田道空が進み寄り、
『そこにおられるのが山城殿でございます』という。
『であるか』
と、信長はいい、縁から中に入って道三にあいさつし、座敷に座った。」

ここに見える信長の行動は、
全て、自分と道三はあくまでも対等であるという主張である。
だから、道三の家中には見向きもしないし、
道三が姿を見せなければ座敷にも入らない。
道三が現れ、正式の紹介があって初めて、その前に進むのである。
現代の日本人には想像できないほどの強烈な自負心ではないか。
 その後、信長は湯漬けの接待をうけ、
道三と杯を交わして、対面の儀は滞りなく終わった。

「道三は苦虫を噛み潰したような顔で、『いずれまた会うことにしよう』といって、
立ち上がった。
帰り道、二人は二十町ほどいっしょに馬を進ませた」

原文は「廿町許り、御見送り候」とだけある。
どちらが見送ったという主語はない。
「帰り道、二十町ほどいっしょに馬を進めた」というのはわたしの意訳である。
二十町というのは約二・二キロメートルである。
どちらかが立ち止まって「相手を見送った」と解釈するには長過ぎないだろうか。
道三が見送ったわけはないし、信長は対等を主張しているのだから、
もっとあり得ない。
対面の席は酒宴ではなかった。杯を交わしただけであったろう。
たぶん、堀田道空が杯のやり取りの仲立ちを務めたと思われる。
二人の間には距離がある。
そんな場で発せられたのはだれに聞かれてもよい儀礼的な言葉だけだったに違いない。
しかし、道三には質問したいことがあったはずだ。
鉄砲と、三間半の鑓についてである。
信長はあくまでも対等ということを念頭においているから、
正雲寺を去るときも、道三と同時と決めていたであろう。
たぶん、門のところで道三を待っていたのではないか。
それを見て、道三の方から、そこまでいっしょに行こうと信長を誘った。
わたしが意訳したのは、そのように推理したからである。
並んで馬を歩かせれば、家臣に聞かせたくない話もできる。
二・二キロメートルというのは、鉄砲は実戦において効果があるのかどうか、
なぜ三間半の鑓に変えたのかを道三が問い、
信長が答えるのにちょうどよい距離ではないだろうか。
道三は、信長の言葉に中に、
これまでとは違う全く新しい合戦のありようを見て愕然としたであろう。
同時に、信長という男が内包する可能性のとてつもない大きさにも気づいた。
斉藤道三、(生年は不祥だが)もう若くはないことを自覚している。
自分の残された命ではとても実現できないほど、信長の可能性は大きく見えた。
横にいて、ともに馬を歩ませているのは婿である。
「いっそ、この婿殿に肩入れしてやるか」
ふっと、そんなことを思ったかもしれない。
「その可能性がどのように実現していくか。それを見守るのも一興かもしれん」
一方の信長は、ゲームふうにいえば、
自分が道三を「チャームした」ことを確信していた。
そういう確信が生じなければ、
道三の兵に国をそっくり預けるという発想は出てこなかったろう。    
二人が別れた後、道三はだまりこくったままだった。

「途中、あかなべというところで、猪子兵介が、
『どう見ても上総介様というのは「たわけ」でございましたな』といったところ、
道三はこう答えた。
『そうならば、無念なことよ。この道三の子たちは、
あの「たわけ」の門外に馬をつなぐ(家来になってしまう)ことになるのは
見え見えだからな』
これ以降、道三の前ではだれも『たわけ』という言葉を口にする者はいなくなった。」

斉藤道三は、この三年後、息子義龍と戦って敗死する。義龍軍一万七千五百に対し、
道三軍は二千七百に過ぎなかった。美濃の国人たちは、みな義龍のもとに参集した。
道三は国人たちの信頼を得るのに失敗したのである。
 このとき、信長は舅道三救援のために出陣する。
しかし、率いていた兵は二千程度であり、途中で道三戦死の報を聞くと、
小競り合いのみで兵を引いた。
信長は今川義元との戦いに備えている。
義龍軍と決戦し、兵力を損じるのは避けなければならなかったのである。

鈴木銀


〔父信秀の葬儀〕

信長の父信秀の葬儀は万松寺で行われ、尾張中の僧のほか、
諸国行脚の僧も加わり、三百人にも及んだ。
その葬儀の席に、信長は例のかっこうで現れるのである。
(ただし、遅れてきたという記述はない)

「信長が焼香の場に出る。
そのときの信長のいでたちは、柄の長い太刀・脇差を差し、
その柄をわら縄で巻いていた。髪は茶せん髷で、袴もつけていない。
仏前に出ると抹香をくわっとつかむと、仏前に投げかけ、帰ってしまった。」

信長はTPOについて深く考え、その効果を計算して臨む。
葬儀という厳粛な場に、なぜ普段のかっこうで現れたか、
それには信長の主張がこめられていたはずである。その主張とは何だったのか。
信秀には大勢の息子がいた。男子だけで十一人、娘も入れると二十四人である。

実は、一般にはあまり知られていないが、信長も子だくさんであった。
正妻との間には子がいなかったが、五人の側室が男女合わせて二十四人を産んでいる。
昼間の激務と心労とを、夜、女と過ごすことで癒していたのだろう。
ただし、信長が女色に溺れたという気配は感じられない。
あくまでも、仕事は仕事。
癒しは、癒しと割り切れる心をもっていたのである。

ところで、『信長公記』の信秀葬儀の場に登場する息子は、
信長と、その弟の折り目正しい信勝の二人だけである。
君主の葬儀で最も注目されるのは、だれが跡を継ぐのかという問題である。
信秀の葬儀の場でも、それは話題になっていた。信長か、信勝かである。
そこで、残りの息子の動向について、太田牛一は省略してしまったのだろうと思う。
信秀の長男は、庶子の信広であり、
本来なら、信広も話題の対象になってもおかしくないところである。
しかし、二年前の十一月に太原雪斎率いる今川勢に敗れ、降伏したことで、
後継者レースから脱落した。
この月、信長は熱田八か村に「藤原信長」と署名した制札を出している。
当然、信秀が許可したのであろう。
ところで、君主である父親から見れば、法で決められていない限り、
後継者の基準は母親ではなく、
だれが君主としての資質を備えているかという点であろう。
(君主が老齢で、若い側室にメロメロになっている場合は別だが)
信秀もその視点で信長を選び、三郎という名を与えていた。
もし信長が嫡男であったら、嫡出子の中で最年長であり、
亡き父の一種のお墨付きもあるのだから、後継者問題は起きなかったのではないか、
というのがわたしの推理である。
『信長公記』には、信秀の正室の土田御前を「信長の御袋様」と書いてある。
(ただし、信長誕生の記述では、母親にはふれていない)
それで、他の資料もそれに従ったにすぎないと、わたしは見ている。
では、牛一はなぜそんな嘘を書いたのだろうか。

鈴木銀


〔弟喜六郎の殺害事件〕

わたしが『信長公記』を初めて読んだとき、「あれっ」と思った記事がある。
それが、「勘十郎殿御舎弟喜六郎」の殺害である。
勘十郎とは信勝のことであり、喜六郎とは秀孝のことである。
起きたのは、弘治元年(一五五五)のことであった。

「六月二十六日、守山の城主織田信次(信長の叔父)が
龍泉寺城の下の松川の渡しで若侍たちと川狩りに興じていたところ、
信勝の弟秀孝がただ一人馬に乗ってやって来た。
信次が、『ばか者め、馬に乗ったまま城主の前を通るとは何たるつもりか』というと、
洲賀才蔵という者が弓を取り上げ、矢を射かけた。
たまたまその矢が当たってしまい、秀孝は落馬した。
信次たちが川から上がって見てみると、信長の弟の喜六郎秀孝ではないか。
年のころは十五、六、肌は白く、唇は赤く、優しげな感じで、
その美しさはたとえようがないほどであった。
そうとわかって、みんなあっと肝をつぶした。
信次は取るものも取りあえず、居城の守山にも帰らずに、馬に鞭をくれ、
どこともなく逃げ去ってしまった。
その後、何年かは浪々の暮らしで苦労をすることになった。
兄の信勝はこのことを聞くと、末盛の城から守山に駆けつけ、
町に火をかけてはだか城にしてしまった。
信長もただ一騎で清洲から三里の道を休みなしに駆けつけた。
守山の入り口の矢田川で馬の口を洗っていると、犬飼内蔵が来て、
信次は直ちにいずこともなく逃亡し、城にはだれもいないこと、
町はことごとく信勝によって放火されてしまったことを言上した。
信長は、『領主の弟という身分で、供も連れず、
下僕のようにただ一騎で駆け回るとは、
全く感心できない行為である。たとえ命を永らえていたとしても、
今後許すことはできない』といって、清洲に帰った。」

この二か月後に、「稲生の戦い」が起こる。
信勝はそのとき自ら出陣してはこなかった。
そんな男が、弟が殺されたといって相手の城下に乗り込み放火までしたのである。
それにひきかえ、信長の態度の冷たさはどうだろうか。
ひょっとして、秀孝は信長の腹違いの弟なのではないかと、わたしは疑った。
もしそうだとすると、信勝も腹違いとなり、
信長は土田御前の産んだ子ではない、つまり、嫡男ではないことになる。
そういえば、秀孝は原文では「勘十郎殿御舎弟喜六郎殿」である。
信勝のときは「御舎弟勘十郎殿」と書かれている。
なぜ、同じように「御舎弟喜六郎」と書かず、「勘十郎殿御舎弟」と書いたのか。
秀孝が異母弟であるということを、
太田牛一が無意識のうちについ漏らしてしまったのではないか。
「語るに落ちる」というやつである。コロンボのように老練な刑事なら、
決して見逃すはずはない。顔には出さないが、
心の中で「おやおや」とつぶやくところだろう。物証ではないが、心証とはなる。
実は、この話には後日談がある。
後に、信長は秀孝殺しの責任者の信次を守山城主に戻しているのである。
これでは、信長と、信次がグルになっていたとしか考えられないではないか。

鈴木銀


〔後継者気取りだった信勝〕

信長が嫡男ではなく、信秀の葬儀で後継者問題が話題になっていたと仮定すれば、
信長の行動の謎も解けてくる。
信長が嫡男であって、信秀が後継者として明言していたら、
信勝派には何の大義名分もない。
そうであっても、旧守派は体制破壊者である信長を廃そうとしただろう。
しかし、その場合は、事を起こすぎりぎりまで秘密を保つ必要がある。
秘密が漏れれば、信長に討伐の理由を与えるからである。
ところが、秘密保持に気を使った気配は全くない。
信勝擁立は噂となって流れ、信長の知るところとなっている。
謀反にしても、その出だしは信長の直轄地の横領である。
これは当主が行う行為であって、反乱側がとる行動ではない。
信勝派には反乱という意識がなかったのであろう。
嫡流という大義があったので、信長はうかつに手を出せまいとたかをくくっていた。
また、手を出してきても、戦力は自分たちが上だと安心していたに違いない。
信秀は、信長を後継者として扱ってはいたが、
それを重臣たちが居並ぶ前で公言はしていなかったと推察する。
臨終の場でも、だれを跡継ぎにするということはいわずに終わった。
あるいは、臨終に立ち会っていただれかが、わざといわせなかったか、
あるいは、信秀の意思を聞かなかったことにしたのではないか。
もっと想像をたくましくすれば、遺言をでっち上げた可能性まである。
臨終に必ず立ち会っただろう者とは、いっしょに暮らしていた正室の土田御前と、
その子信勝である。
さて、そのような状況下で、信長はどうTPOを考えただろうか。
葬儀にふさわしく折り目正しい身なりをしたところで、
嫡流という点では勝つことはできない。
とすれば、父親が後継者として扱ったことをアピールするしかないであろう。
それがいつもながらの、ふざけたいでたちなのである。
「信勝がいくら嫡流を主張しようが、親父が後継者として扱ってくれたのはこの俺だ。
いいか、俺はいつもこんなかっこうをしていた。
それでも、親父は俺を認めていた。俺がもっている力を理解してくれていたのだ。
それを忘れるな」
「抹香をくわっとつかんで投げつけた」行為は、
どう考えても弔意の表れとは考えられない。
怒り、または、宣戦布告の行為である。
わたしは、後継者問題のケリをつけられなかった父親への怒りであり、
信勝擁立派および、父親に象徴される旧体制に対する宣戦布告であったと解釈する。
ほとんどの信長本は、信長が父親を尊敬し、愛していたとしている。
しかし、本当にそうであったか、わたしは疑っている。
『信長公記』は信秀について、「取り分け器用の仁にて」
つまり、「特に優れた人物であった」と書いてある。
そこで、そんな優れた父親なら、
当然、子の信長も尊敬したであろうと短絡して結論を出しているのである。
しかし、信長がどう思ったかは、信長の視点に立って考えなければならない。
信長の視点、つまり、
信長が物心ついてからの信秀の戦いは負け戦の方が多いのである。
特に、晩年は負け戦ばかりといってよい。
敗戦の報せを聞いて、信長は、「何だ、親父はまた負けたのか」と思ったに違いない。
そして、「自分なら絶対に勝ってみせる」と、心の中で誓ったであろう。
勝つためには、父親とは違う戦い方をしなければならない。
信長は世間から爪はじきにされかねない乱暴者を集めて小さな親衛隊をつくり、
暇があれば演習を行った。その結果生み出されたのが「三間半の長鑓」であった。
また、鉄砲が手に入ってからは、その研究に励んだ。
信長は、父親でさえも見下していた。
そして、必ず父親を乗り超えてみせると決心していた。
信長の行動パターンからすれば、そう考えた方が自然である。
信秀は、確かに信長を愛していたようだ。
しかし、信長はまだ十九歳で子どももおらず、父親の真の愛を知るには若すぎた。

葬儀の場に話を戻そう。

「弟の勘十郎信勝は、きちんとした肩衣、袴を着け、礼にかなった作法だった。
人々は信長に対しては、いつものように「大うつけ」だと、口々に評判しあった。
その中で、筑紫の客僧ひとりだけが、
『ああでなければ、とても国持ち大名とはなれないだろうよ』
と、いったという。」

鈴木銀


〔信勝の謀殺〕

柴田勝家を怒りで退散させ、林美作守を自ら討ち取った稲生の戦い以後、
信勝派は末盛城と、那古野城に籠城したままとなった。
勝家が、信長様には勝てないと思い込んでいるのだから、
ほかの者に戦意があるはずはない。
信長はこの二城の間にしばしば手勢を出し、城近くまで焼き払わせた。
たまりかねて、勘十郎信勝の母土田御前がわびを入れる使者を信長のもとに送ってきた。
そこで、信長も許すことにした。

「信勝、勝家、林通勝らは、墨染めの衣を着て、母親同道で清洲へやって来た。」

信長は、かれらの表情を観察する。
勝家については、完全にチャームしたことを確信した。
事実、勝家はこの後、信長の最も忠実な家臣となる。
そして、信長の死後も、織田家を支えようとするのである。
信勝には、もともとどうしても信長に取って代わろうという
強烈な意志があったわけではない。
林兄弟に担がれ、踊らされていたにすぎない。
表情からも、本気で後悔し、罪を許されてほっとしているのが見てとれる。
しかし、信長は思う。
「こいつだけは許せん」
信長にとって、嫡流である弟というものは存在するだけで「悪」であった。
なぜなら、今川との本格的な戦いになれば、必ず、その調略の対象となるからである。
「その前に、いい折を見て始末しなければならぬ」
 林通勝は首謀者で、本来なら許すことはできないはずだった。

「先ごろ、信長が切腹させられそうになったとき、通勝は強く反対した。
そのいきさつを斟酌して、今回は許すことにした」

実際は違うと思う。林は何といっても筆頭家老である。
それを処刑してしまえば、旧体制派の動揺が大きすぎると考えたのではないだろうか。

翌年、信勝は再び謀反を試みる。
勝家がそれを注進すると、信長は仮病を使う。
勝家と、母親が見舞いに行った方がいいと勧めるので、信勝は清洲城にやってくる。
そこを家臣に命じて殺害した。
わたしは、この件に関する『信長公記』の記事はいっさい信用しない。
まず、信勝がやろうとしていたというのが、
前回と同じ信長の直轄地である篠木三郷の横領だと書いていることだ。
前にそれで痛い失敗をしているのに、その轍を再び踏もうというのである。
これでは、信勝と、その共謀者である織田伊勢守信安は全くの馬鹿者扱いである。
あるいは、牛一がわざとそう書いたとも考えられる。
『信長公記』を注意深く読めばその不自然さに気づき、
信勝が無罪であることが分かるようにしたのである。
牛一は、信長をかばいつつも、信勝に同情していた。
信勝を悪く書いてある記述が一つもないことが、それを裏づけているといえるだろう。
第二は、再度の謀反という重大な企みをもっていたら、
主君からの呼び出しには、まず疑ってかかるはずだ、という点である。
この場合、単純な呼び出しではなく、重病という扮装をまとっていた。
しかし、相手は謀略で知られる信長である。
もし、やましい心があるなら、必ず逡巡するであろう。
それが、信勝だけでなく、母親までも疑いをもたなかった。
つまり、やましい心はなかった。だから、信勝は全くの無実であったと推理する。
想像ではあるが、実際はこうであったろう。
この年、信長の側室吉野が長男奇妙丸(後の信忠)を出産する。
信長は喜び、生駒屋敷で踊り明かしたともいわれる。
それが心の引き金ともなったのか、信長は信勝殺害を決め、
病気と称して清洲城から出なくなる。
勝家が心配して見舞いにくると、信長はこういった。
「信勝に再び謀反の気配がある。今回は許すわけにはいかんので、
この城に呼んで処刑するつもりだ。
お前は、俺が親父殿と同じ病に臥せって、明日も知らぬ命であると伝えよ。
俺が家督について信勝と話したがっているともな」
勝家は何も質問せず、いわれたとおりにする。
土田御前は、勝家がチャームされてしまったことに気づかず、
息子のために戦ってくれた仲間だと思い込んでいる。
そこで、息子に清洲城に見舞いに行くよう勧めた。
信勝は、父信秀が見抜いていたように、やはり戦国大名の器ではなかった。
他人の言葉を信じすぎる。
そして、結局は若い命を捨てることになったのである。

ここまで議論を進めると、
太田牛一がなぜ信長を嫡流であると書いたかが納得できるのである。
牛一は、信長が無実の信勝を謀殺したとは書きたくなかったのだ。
信長が嫡男であれば、それに謀反を企んだ信勝には大義はなく、
非はむしろ信勝にある。
牛一はそういう設定を考えた。
そして、『信長公記』における信勝殺害を年代順には並べずに
桶狭間の戦いの後に入れ、さらに、
その少し後ろに斉藤道三の謀略を描いて信長の行為の印象を弱めたのだと推察する。

鈴木銀


〔謀殺の天才?〕

織田信長ファンにとっては認めたくないことかもしれないが、
謀略・謀殺もまた信長の真実の姿の一つである。
弘治元年(一五五五)の時点で、
信長の敵対勢力の拠点清洲城には守護代として織田彦五郎信友がいた。
坂井大膳はその下の小守護代であるが、実質的な清洲城主ともいえる。
坂井大膳の有力な家臣たちは信長との戦いで討ち死にして、
大膳一人では守りきれなくなっていた。
そこで、織田孫三郎信光に助力を頼もうとする。
信光に清洲城に入ってもらい、
信友・信光の二人が守護代になるという約束が成立して、
四月十九日、信光は清洲城の南櫓に入った。

「実は、これには裏があった。
信光は信長と交渉し、清洲城をだまし取って進上するから、
尾張下郡四郡のうち、二郡をもらいたいといと提案し、承諾を得ていたのである。
この孫三郎信光は信長の伯父に当たる人である。
翌日、信光は坂井大膳がやってきたら殺害しようと、軍兵を隠して待っていた。
大膳は途中までやって来たが、異様な気配を感じ、風をくらって逃げ出した。
そのまま駿河へと行き、今川義元を頼ってその地に留まることになる。
信光は守護代の織田信友のもとに押し寄せ、腹を切らせて清洲城を乗っ取った。」

約束通り、清洲城は信長のものとなり、信光には自分がいた那古野城を与えた。
信光がいた守山城には、信長の弟の信時が入った。
ところが、十一月には信光が家臣の坂井孫八郎に殺害されるという事件が起こる。
尾張四郡を分割するという約束は、立ち消えとなってしまい。
信長には、労せずして清洲城を手中にしたという結果だけが残った。
何という都合のよさ。さすがの歴史学者も、
裏に信長の関与があった可能性が高いと指摘している。

翌年七月、今度は守山城で弟の信時が、
やはり家臣の角田新五に殺されるという事件が起こる。
代わって守山城に戻ってきたのが秀孝殺害の織田信次というわけである。
角田新五は信長によって処罰された形跡はない。
坂井孫八郎もそうだという。
とそれば、やはり裏で信長の手がうごめいていたのだろうか。

ともあれ、これらの謀略と、戦いの結果、国内の反信長勢力は
岩倉城(岩倉市)を居城とする守護代織田伊勢守信安だけとなった。
永禄元年(一五五八)、岩倉城に内紛が起こった。
信安の長男信賢が父の信安を追い出してしまったのである。
信長はそれを機に、出陣に踏み切る。
信長の従兄弟の犬山城主織田信清も援軍を出し、岩倉城の北西浮野に陣を構えた。
信賢方も三千の兵を出し、戦いとなった。
結果は信長方の大勝で、千二百五十もの兵を討ち取ったという。
しかし、城の攻略まではできなかった。
 翌年の春、信長は再び兵を出す。今度は力攻めでなく、
二重、三重に鹿垣を巡らすという本格的な包囲戦である。
二、三か月に及ぶ包囲の間、信長軍は陣地から火矢や、鉄砲を城内に射ち込んだ。
城方はついに防戦をあきらめ、開城を申し入れた。
信長は岩倉城の取り壊しを命じて、清洲に帰還する。
こうして、家督を継いでから八年、信長はついに国内を統一した。
桶狭間の戦いの一年前のことであった。

この二つの岩倉攻めの間に、信長は突然思い立ったように上洛する。
一回目の岩倉攻めで、もう岩倉は脅威ではないと判断したのだろう。
八十人の供を連れたのみの、短期の上洛であった。 
 永禄二年(一五六九)二月二日、信長は将軍足利義輝の謁見を受ける。
 このとき、美濃から三十人ほどの刺客が京に送られてきた。
刺客は、幸いなことに、丹羽兵蔵という者の機転で見破ることができた。
信長はわざわざその宿泊先に出向き、名乗りを上げるという荒業で、
刺客たちの度肝を抜く。
これは、信長の危地に飛び込む行動パターンのひとつとして見れば面白いのだが、
問題は、上洛がなぜ美濃にもれていたのかということである。
スパイの働きなのか、それともだれか家臣の中で美濃と通じている者がいたのか。
もう一つ注目しておきたいことは、この上洛の途中で、堺に寄っていることである。
当時の堺には鉄砲鍛冶がいたし、火薬に必要な硝石の輸入港でもあった。
さらに、流行し始めた茶の湯の誕生の地でもあったのである。
信長が堺でだれと会ったのか、それがわかるといいのだが、
残念ながら資料は見つからなかった。
たぶん、信長は鉄砲と茶の湯と、その双方に興味があったのではないだろうか。

鈴木銀


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[参考] 信長 第3章 【信長の守護神はスサノオと牛頭天王】 鈴木銀一郎

鈴木銀一郎先生が、BBS「金羊亭」で、
織田信長の研究に関する記事を掲載していますので、ご案内します。


信長 第3章 信長の守護神はスサノオと牛頭天王 (2009年8月23日)

〔スサノオは戦神〕

スサノオノミコトというと、日本神話の成り立ちに興味がない人は
『古事記』に描かれた姿しか思い浮かばないだろう。
天照大神の弟で、高天原での乱暴な行為が、「岩戸隠れ」の原因となったこと。
その結果、高天原を追放され、出雲の国でヤマタノオロチを退治したことである。
しかし、多くの学者が指摘しているのは、記紀神話は祖母から孫への譲位、
つまり、持統天皇から、孫の文武天王への譲位を正当化するために
つくられたということである。
持統天皇は、夫である天武天皇の血筋に皇位を譲るのを拒否しつづけ、
ついに孫の文武天皇に譲位した。
記紀の伝えるところでは、天武は天智天皇の異父弟であり、
その父とは皇族であるということ記述になっている。
しかし、実は皇族ではなく、新羅から渡来した有力者であったという説があり、
わたしもそれを信じている。
井沢元彦氏の『逆説の日本史2古代怨霊編』は、
さらに、天武は天智の異母弟ではなく、異父兄であり、天智の死は病死ではなく、
天武による暗殺であったという説を展開している。
当時、天智は唐と軍事同盟を結ぼうとしていた。
もし同盟が成立すれば、新羅の存続は危うくなる。
新羅派であった天武は、何としても同盟を阻止するため、
天智を暗殺したというのである。
森鴎外は、その晩年期に天皇の諡号について研究した。
それによると、天智というのは殷の紂王が身につけて自殺したという「天智玉」
からきているという。
そして、天武の「武」は紂王を討った周の武王から出ているという。
二人の諡号を決めた人物は、言外に天武が天智を討ったといっているのである。
そういう事情なら、持統天皇が、
天武の血筋に皇位を譲ろうとしなかったのも納得できるではないか。
(この話は非常に興味を引くのだが、信長とは直接関係ないので、
これ以上ふれるのは止めておく)

記紀神話は世界で唯一、最高神が女神の神話である。
その理由が、祖母から孫への皇位継承を権威づける神話の
改ざんにあったというなら納得できる。
そのために、スサノオはアマテラスの弟として下の位置に置かれ、
罪人としての扱いを受けることになった。

イザナギ・イザナミが最初に産んだ子、ヒルコノミコトが
「日の男神」だったという説がある。
アマテラスの別名に「おおヒルメのむちのかみ」がある。
記紀神話の神々は対で産まれてくるのが普通である。
「ヒルコ」と「ヒルメ」は日の男神、日の女神として対で産まれた。
ところがヒルメが最高神になったため、ヒルコを処分しなくてはならなくなった。
そこで、骨がない蛭のような子として、海に流してしまったというのである。
ヒルコ(蛭子)は後に商売繁盛の神「恵比寿様」として祀られるようになる。

記紀神話のスサノオノミコトは真実の姿ではない。
代わって浮かび上がるのは、国土の開拓者、建設者、
そして統治者としての国津神スサノオの姿である。
その国津神は、朝鮮の新羅と関係が深いとされる。
もう一つ、だれも言及していないのが、戦の神として崇敬されたスサノオである。

大同五年(八一〇)正月、嵯峨天皇は津島神社に対し、
「素尊は即ち皇国の本主なり、故に日本の総社と崇め給いしなり」と称して
「日本総社」の号を奉った。
この年には記紀はすでに完成して、スサノオはアマテラスの下に置かれている。
皇国の本主はアマテラスであり、日本総社は伊勢神宮でなければならない。
それなのに、スサノオを本主と称えたのは、
いかにスサノオが偉大な王であったかを示すものといえよう。
この大同五年という年は、「薬子の変」が起こった年である。
薬子の変とは、嵯峨天皇と平城上皇との対立によって九月に起こったものだが、
前年末にはその兆しが見えていた。
上皇は藤原薬子の兄藤原仲成らを派遣して平城宮を造営させ、
十二月にはそこに居を移した。
上皇はその地で、天皇に代わって政治を行うつもりであったのだ。
嵯峨天皇は「変」が起こることを予期し、正月にスサノオを日本の本主と称え、
来るべき戦いの勝利を祈願したのであろう。

そう推察すのは、同じようなケースが前にあるからである。
壬申の乱において、大海人皇子(後の天武天皇)は、
美濃の不破の仮宮に進出したとき、自らスサノオノミコトと、
十拳剣を祀り、戦勝を祈願した。それが岐阜県七相町にある神渕神社である。
嵯峨天皇は、壬申の乱で勝利した大海人皇子の前例にならい、
スサノオノミコトに祈願したのである。
また、ヤマトタケルも危地に陥るたびに、助けをスサノオに求めて祈っている。
そのほか、仲哀天王の皇子忍熊王(剣神社の副神)がスサノオの神助によって
賊徒を退治したとか、赤松則村がスサノオに戦勝を祈願し、
六波羅軍を破ったとかいう伝えも残っている。
このように、スサノオは武将の戦勝祈願の対象でもあった。
そして、その淵源は天武天皇と、嵯峨天皇の故事にあったのである。
信長は知識欲旺盛である。
織田家の祖神ともいうべきスサノオノミコトについては調べたことであろう。
当然、そのことも知っていたはずである。
そのスサノオと、牛頭天王とは習合して一体化している。
信長が怒りを感じるたびに、
牛頭天王の憤怒の相をイメージするようになったとしても不思議ではない。
むしろ、意識してそうしただろう。
それによって、自分の怒りを昇華させ、そのエネルギーを増幅する。
さらには、怒りの場において、
信長は牛頭天王と一体化した感覚を得るようになっていく。
そのとき、信長自身の形相は、牛頭天王の「憤怒の相」になる。
稲生の戦いにおいて柴田勝家を臆させたとき、信長の形相はそうであったに違いない。
仏像として造形された「相」よりもさらに凄まじい、
人間がとりうる究極の「憤怒の相」であった。
勝家はその相に臆し、圧倒され、気がつくと逃げ出していたのである。

鈴木銀


〔理想と現実との乖離〕

 江戸時代の大名と家臣は、はっきりした主従関係にあった。
家臣は主家を離れたら生きていけないからである。
しかし、戦国時代においては、大名と家臣との関係は、一種の契約でしかなかった。
大名は、家臣にその所領の排他的支配権を保証する。その代わり、戦になれば、
家臣はその所領に見合った数の兵士を率い、大名のもとに馳せ参じるのである。
大名にその器量がないと思えば、家臣は簡単に仕える相手を変えた。
現代の目から見れば裏切りであるが、当時にしてみればごく当たり前の行為であり、
道義的に非難されることはなかった。
多くの所領をもつ有力国人が、その大名の重臣となり、
重要な案件は重臣たちに諮らなければならない。
つまり、戦国大名は有力国人たちがかつぐ神輿の上に乗っているのに等しかった。
担ぎ手たちが合意しなければ、進行方向を変えることができなかったのである。
武田信玄然り、上杉謙信然り、徳川家康も然りだった。
しかし、信長の理想は違っていた。
家臣に与えるのは所領ではなく、俸禄である。
つまり、「○○の庄を与える」のではなく、「銭○○貫の俸禄を遣わす」のである。
領地の支配権はあくまでも主君である信長の手にあり、
税制、禁令などは領国内で統一的に施行される。たとえ城主になっても、
その城に居住し、その維持に当たるというだけで、
周辺の田畑は全て主君が統治するわけである。
この制度のメリットは、主君が、家臣団を一つの組織として運営できること、
家臣を自由に配置換えできること、兵士を常備兵にできることが挙げられる。
主君のメリットは、家臣のデメリットになることが多い。
先祖伝来の所領をもっている代々の家臣にとっては、
その支配権を手放すことは許しがたいことであったろう。
信長も、旧来の家臣について、そういうことはしていない。
また、そういう理想を公表したという記録もない。
しかし、ふだんの言動や、新しい家臣に対しての俸禄制を見れば、
信長がどんなことを考えているかは察することができたのではないか。
家督を継いだとき、信長神輿を担ごうとする家臣はだれもいなかった。
前章で述べた信勝・林兄弟の裏切りの際、信長は自分の手勢だけで戦っている。
どう考えても、これは異常なことである。
普通なら、主君が「裏切りだ」と叫べば、
合力に駆けつける家臣はいくらでも現れるはずではないか。
それが、だれもいなかったとは・・・。
『信長公記』は記す。

「敵に攻められ、身内には背かれ、信長は孤立していた。
しかし、たびたび手柄を立てている屈強の侍衆が七、八百人もそろっているので、
合戦で一度も敗れたことはなかった」

鈴木銀


〔スサノオの啓示〕

十八歳で家督を継いでから、信長の日々は、「現実」との闘いの連続となった。
親族、重臣、国人衆。信長の理想から見れば、みんな敵であった。
その他に、尾張に蝕手を伸ばしていた今川義元がいた。
まず、それらの敵に勝たなくては「理想」も何もない。
普通の人間なら、妥協に次ぐ妥協で、まず身の安全を図ることだろう。
他の戦国大名もみなそうした。国人たちの要求に応え、主君としての地位を確保した。
しかし、理想主義者である青年信長はいっさい妥協しなかった。
自分の知恵と、自分が育てた親衛隊を信じて戦い続けたのである。
戦闘には勝ち続けたかもしれない。
しかし、苦悩の日々であったことは間違いない。
どうやったら自分の理想を実現できるのか。それを考え、迷い、悩んでいたとき、
ある夜、スサノオが牛頭天王の姿で信長の夢枕に立った。
こう書くと、拒否反応を起こす人が多いかもしれない。
われわれ現代の日本人は、「啓示」を与えるもの、
つまり「神」というものは存在しないと思い込んでいる。
存在しないものは、何かを与えることはできない。
だから、「啓示」が学術書に現れることはない。
しかし、歴史を見てみれば、「啓示を受けた者」は大勢いるのである。
つまり、「啓示」とは、与える存在の有無ではなく、受ける側の心の問題なのだ。
ましてや、わたしは「信長が荒野に一人いたとき、
まぶしいばかりの光とともに牛頭天王が姿を現した」
というような大仰なことをいっているわけではない。
夢を見たという、ごく自然なことをいっているにすぎない。
夢は、無意識における精神活動の現れである。

ミシンの発明者のシンガーには、夢にまつわるこんなエピソードが伝えられている。
シンガーはミシンの発明に取り組んでいた。
もう少しのところまで来ているのだが、後一つの問題点が残っていて、
毎日試行錯誤を繰り返していた。ある夜、彼は蛮族に捕らえられ、
柱に縛りつけられた夢を見る。
蛮族たちはどうやらシンガーを処刑しようとしているらしい。
槍を持った戦士たちがシンガーを取り囲む。
そのとき、シンガーは戦士たちが持つ槍の穂先を見て驚く。
どの穂先にも、丸い穴が開いていたのだ。
シンガーは「それだっ」と叫んで飛び起きた。
ミシンの針の先に穴を開け、そこに糸を通す。
それで、最後に残された問題を解決したのである。

信長も問題意識をもって悩んでいた。
だから、牛頭天王が夢に現れたにしても不思議はない。
おそらく、信長の夢には、
しばしば牛頭天王が現れていたのではないかと想像している。
夢枕に立った牛頭天王がどういったのかは想像するしかない。
たぶん、牛頭天王=スサノオは信長に天下を統一し、
理想を実現せよという使命を与え、加護を約束したのであろう。
そして、最後に草薙剣を与えて、こういう。
「汝に逆らう者どもを、この剣で切り従えよ」
草薙剣はスサノオがヤマタノオロチを退治したときにその尾の中から得た剣である。
その後、ヤマトタケルが東征の際に与えられ、
駿河の草原で火攻めにあったときこの剣で草を薙ぎ、難を逃れた。
熱田神宮は、この剣を祀るために建てられたものである。
信長は、はっとして目を覚まし、夢であったことに気づく。
しかし、その手には剣を握ったときの感触がまざまざと残っていた。
当時は神仏が夢枕に立つことはしばしばあり、不思議でも何でもなかった。
精神分析なんてこともない時代だ。夢はそのまま信じられた。
もちろん、資料は何もない。しかし、論拠はある。
それが第一章で述べた「危地に飛び込む行動パターン」である。
どう考えても、一時期の信長には危険を無視した行動が多い。
それは何かの「啓示」を受けてそれを信じきっていたか、
あるいは、「啓示」が真実であるかどうか、それを試していたとしか、
わたしには考えられない。
もちろん、それを否定するのは自由である。
ただし、絶対にそんなことはないと主張するのだったら、
逆に、その論拠を示していただきたい。
信長がスサノオ=牛頭天王から啓示を受けなかったとする資料もまたないのである。
『信長公記』には次のような記述がある。

鈴木銀


〔火起請を取る〕

火起請とは、昔の裁判の判定に用いられた方法の一つである。
真っ赤に焼いた鉄を握らせ、持てるか否かで有罪・無罪を決するものである。
この事件がいつ起きたかは明記されていないが、
『信長公記』の首巻に記載されているので、
信長が家督を継いでから数年ほどの間のことであると思われる。

「尾張の国海東郡大屋の里に、織田造酒丞の家来で甚兵衛という者がいた。
隣村の一色という所には左介という者がいて、二人はかくべつ親しい間柄だった。
十二月中旬のこと、大屋の甚兵衛は、年貢納入のため清洲に行っていた。
その留守の間に、一色村の左介が甚兵衛の家に夜盗に入った。
甚兵衛の女房は起き上がって左介にしがみつき、その刀の鞘を取り上げた。
そのことを清洲に申し出て、裁判となり、双方が守護に言い分を申し立てた。
一色村の左介は、信長の乳兄弟で当時権勢のあった池田恒興の被官であった。
裁判は火起請で決することになり、山王社の神前に奉行衆が出座し、
双方からも検使役が出た。天道には逆らえず、左介は火起請に失敗した。
しかし、池田恒興の家来衆は権威におごっていたので、左介をかばい、
成敗させまいとした。
そこへ鷹狩りの帰りの信長が立ち寄って、この騒ぎを見ていった。
『こんなに大勢の人間が弓、槍、刀を手にして集まっているのは、どうしたのだ』
双方の言い分を聞いている途中で、信長の顔色が変わる。
『どのくらい鉄を焼いて取らせたのか、やったように焼いてみよ。俺がよく見てやる』
鉄を赤くなるまで焼き、このようにして取らせましたと答えると、信長はいった。
『俺が火起請をしっかり請けたら、左介を成敗する。よいな』
信長は焼いた手斧を手に取ると、三歩歩いて棚に置いた。
『しかと見たな』
そういうと、左介を誅殺させた。
信長の形相はまことに凄まじいものであった。」

ここには全くの自信をもっている信長の姿がある。
失敗する可能性などは頭のどんな片隅にもなかったろう。
自分には特別な力があると信じこんでいなかったら、こんな行為に及んだであろうか。
もう一つは憤怒の形相である。柴田勝家を臆させたときもそうだが、
信長は憤怒の相をとるとき、
自身の中に牛頭天王の力がみなぎってくるのを感じていたに違いない。
信長が火傷をしたかどうかは、記述がない。
手に火傷の跡があったとする資料もない。
しかし、信長の体内にはアドレナリンその他の、
われわれがまだ知らないホルモンが大量に駆け巡っていたことであろう。
そのため、信長は火傷ひとつ負わなかった。
もちろん、これはわたしの願望である。
 あるいは、こう反論する人がいるかもしれない。
そんな超自然的な出来事は信じられない。
だから、その話は太田牛一のでっち上げに違いない。
しかし、牛一はなぜそんな話を作り上げたのだろうか。
牛一が、信長をかばうために、何かを書かなかったということはある。
また、わざと順番を入れ替えたということもある。
しかし、火起請の話を書いたからといって、
信長の評判が特に上がるということはない。
また、書かなかったからといって、評判が落ちることもない。
それなら、やっぱり火起請は実際にあったことであったと、わたしは信じている。

鈴木銀


〔僧無辺を調べる〕

天正八年(一五八〇)三月の出来事として、こういう記述がある。

「無辺という諸国行脚の僧が、石馬寺の栄螺坊のところにしばらくの間滞在していたが、
次々と奇特不思議な行いをするという噂が立った。
人々はそれぞれ身分に応じた志を無辺に捧げ、
「丑の刻の秘法」を授かろうと、昼夜を分かたず、男も女も集まってきて、
門前を立ち去らなかった。
信長は、無辺のことをいろいろと聞き、その男に会ってみいたいといった。
そこで、栄螺坊が無辺を連れて安土山にやって来た。
信長は厩まで出向き、無辺をじっくり観察して、思案しているようであった。
信長が問う。
「お前の生国はどこだ」
「無辺(どこでもない)でござる」
「では、唐人か、それともインド人か」
「修行者でござる」
「人の生国は、日本、唐、インド以外はない。さては、お前は化け物だな。
そうならば火であぶってやろう」
そういって、火の用意をせよと命じた。
無辺はその一言で追い詰められ、答えた。
「実は、出羽の羽黒の者でございます」
無辺はただの売僧に過ぎなかった。
「生まれた所も、住む所もなく、
ただ仏法を広めたいという心があるだけ」と言いふらし、
どんな物をもらおうが自分の物にせず、宿にした者に差し出してしまう。
いかにも無欲に見えるが、何度もその宿に戻っては泊めてもらうので、
実は無欲ではない。
ただ、信長は「奇特な行いをする」と聞いていたので、
「その奇特とやらを見せよ、見せよ」と命じた。
しかし、何の奇特も示すことはなかった。
「もともと、奇特不思議な行いをする者は、顔かたちから、目つきまで常人とは違う。
人品も人にすぐれて尊いものでなくてはならない。
お前のいやしさは樵より劣るものだ。
女子どもをたぶらかし、国の者どもに無駄な金を使わせたことは許せん」
信長はそういうと、家臣に命令した。
「この上は、この無辺という男に辱めを与えてやれ」
無辺は、俗家の頭のところどころをそり落とされ、裸にされて縄をかけられ、
町中をさらし者にされた上、追放された。」

いそがしい信長がなぜ無辺のような僧に会ってみようとしたのか。
神秘的なことは起こりえないとう信じていたので、追求したのだという解釈が多い。
しかし、自分以外にも特別な力をもつ人間がいるのか、
確認したかったのだと考える方が自然ではないだろうか。
火あぶりにするといわれ言葉を変えたあたりで、正体は見えている。
それなのに「奇特を見せよ」とさらに迫ったのは、そのためであろう。
「奇特不思議を行う者は顔かたちや、目つきまで常人とは違う」といったのは、
自分のことを意識していたに違いない。
そう考えると何となく愉快になるではないか。
もう一つ、これはスサノオとは関係ないが、見えてくることがある。
それは、信長のもとには不思議な僧という一見政治とは関係ないことまで
情報として上がってくるということである。
この事件は天下統一のめどもついたころに起こっている。
そんな時期においても、信長は小さな事柄まで自分一人で決済しているのである。
もともと「疲れを知らない勤勉さ」が信長の基調のひとつではあった。
しかし、これでは働きすぎではないのか。中年になっても、
信長は心労というものを感じなかったのであろうか。
無辺についても、後日談として次の記述がある。

「その後、信長がよく聞いてみると、「丑の刻の秘法」を伝授するといって、
不妊の女や、病気の女に、「へそくらべ」とかいうことを行っていたことが判明した。
信長は、これから先のこともあるといって、領国全てと、
各国主に命じて追っ手を出し、召し捕らえ、罪を糾明した上で、無辺を処刑した」

鈴木銀


わたしとしては結構重要な章なので、相変わらずご意見・ご感想をお待ちしています。
ぶっちゃけていえば、つまり、信長の啓示を信じるか、信じないかということです。
次は、信長のTPOからの考察の予定です。

鈴木銀



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 鈴木銀一郎先生のゲーム研究記事一覧


[参考] 信長 第2章【危地に飛び込む行動パターン】 鈴木銀一郎

鈴木銀一郎先生が、BBS「金羊亭」で、
織田信長の研究に関する記事を掲載していますので、ご案内します。


信長 第2章 危地に飛び込む行動パターン (2009年8月21日)

〔マムシの道三に国を預ける〕

信長には、自分から危険の中に飛び込む、
あるいは、危険を招きよせるといった行動がいくつもあるのに驚かされる。
そのほとんどが、ある時期、つまり、
信長が家督を継いでから桶狭間の戦いまでに集中しているのである。
その例を、挙げてみよう。

天文二十年(一五五一)父信秀の死後、家督を継いだ信長を若輩と侮ったのであろう、
国内外の敵対勢力がいっせいに牙をむき出しにしてきた。
信長は今川義元との本格的な戦いをにらみつつ、国内統一を果たすために、
戦いと、謀略の日々を送ることになる。
そのなかで、信長のキーワードがいくつも含まれているのが「村木砦の攻略」である。
信長研究のいちばん基本となる資料は、太田牛一による『信長公記』である。
太田牛一は、当時のノンフィクション作家といっていいだろう。
若いころは信長に仕え、
戦場にも出て、弓の名手として活躍している。
自身が戦士であった誇りからでもあろうが、合戦についての記述は簡潔ではあるが、
要点を押さえていて、最も信用できるとされている。
桶狭間の戦いは奇襲ではなく、強襲だったという説を最初に唱えたのは藤本正行氏で、
一九八二年のことであった。
それは『信長公記』の記述を素直に受け入れようというところからきていて、
近年ではそれが主流となっている。本書でも、合戦については同じ立場をとる。
ただ、その他の記述については、
信長のことを悪く書きたくないという気持ちからだろうが、
筆を曲げていると思われるところがあり、全面的に信用するわけにはいかない。
(そういう点はそのつど明記するつもりである)
 さて、『信長公記』によると、村木砦の戦いは次のように記述されている。

「天文二十二年、今川方の手勢は岡崎に在陣して、
鴫原の山岡の城(愛知県知立町)を攻め滅ぼし、乗っ取った。
さらに、ここを根城に岡崎からも援護して、
信長方の小河(知多郡東浦町)の水野忠政の城に向かった。
今川衆は村木というところに堅固な砦を築き、そこに立てこもった。
近くの寺本の城(半田市中島町付近)も今川方に人質を出して加担し、
信長の敵となって小河城への通路をふさいでしまった」

小河城が陥落すれば、知多半島は今川方のものになる。
また、譜代の家臣である水野忠政を見殺しにしたとあっては、
以後、今川の調略に応ずる者が続出することになるであろう。
信長としては、どうしても小河城の付け城である村木砦を潰して
しまわなければならなかった。
しかし、城を強攻するには敵の三倍以上の兵が必要とされる。
それだけの数をそろえて出撃すれば、城に残っている兵力はわずかになってしまう。
国内の敵である清洲城の坂井大膳が那古野に攻め寄せてきたら応戦はできず、
城下は敵の思うように放火、略奪されてしまうことだろう。
そこで、前年に初対面をした舅斉藤道三に、
城下を守る兵を派遣してくれるよう依頼したのである。
道三は依頼に応じ、天文二十三年(一五五四)正月十八日、
美濃三人衆の一人である安藤守就を大将として千数百人の兵を出発させた。

「安藤が率いる部隊は正月二十日に尾張に到着した。
信長は居城那古野に近い志賀・田幡の両郷に陣取りをさせる。
そして、その日のうちに、陣取りお見舞いとして信長がみずから出向き、
安藤守就にあいさつした。
翌日が出陣の予定であったが、筆頭家老の林通勝(秀貞とも)と、
弟美作守が不服を申し立て、
その家臣である荒子の前田与十郎の城へ立ち退いてしまった。
家老衆は、『どうしたものでございましょう』と相談したが、
信長は『いっこうにかまわぬ』と答え、予定通りに出動した」

当時の織田家には、家督を継いだ信長に反発し、
弟信勝(信時とも)を擁立しようとする一派があった。
林兄弟はその中心である。
「大うつけ」の信長では国がもたないから、弟の擁立を図ったという説が多いが、
そうではあるまい。信長は日本の旧体制の破壊者だった。
そうであるなら、尾張という国内でも旧体制の破壊者であったはずである。
それに対し、旧体制側が反発するのは必然のことだ。
かねがね、信長の独断専行ぶりを苦々しく思っていた林兄弟が不服を申し立てのも
無理のないことだった。
それにしても、留守を他国の兵に預けてしまうという発想はどうなのだろうか。
援軍を頼んでいっしょに戦うのではない。自分は出かけてしまって、
国の守りをそっくり任せてしまうのである。そんな例はほかにない。
確かに、斉藤道三は舅ではある。前の年には初の対面をして、
強烈な印象を与えもした。だが、相手は「マムシ」という異名をもつ男だ。
美濃の国主になるまでの謀略・謀殺の数々は信長もよく知っていたはずである。
道三が安藤守就の出発の際与えた指示も、
「尾張で起こったことは逐一報告せよ」であった。
つまり、その報告によっては、別の命令が出る可能性もあったであろう。
もし、斉藤道三が裏切ったら・・・。城には最低限の兵しか残っていない。
しかも、正室である道三の娘お濃の方(帰蝶)がおり、
美濃からやってきた侍女も少なからずいたはずである。
信長には当時、生駒屋敷に吉野という側室がいる。
お濃の方とは結婚して六年になるのに、まだ子どもがいない。
夫婦仲がむつまじかったとはとても思えない状況である。
もし道三がその気になったら、信長の居城は簡単に手に入れることができたろう。
信長は拠点を失い、帰ってきても、その日から兵糧にもこと欠くことになる。
「やはり大うつけであつたか」と世の物笑いの種にされることは必定である。
それは信長が最も忌み嫌うことのはずだ。
それだけでなく、そんなところを敵に衝かれたら、
生き残る可能性は非常に低かったに違いない。
絶対に裏切られないという自信があったのか。
それとも、裏切られたらそれまでのことと、達観していたのか。

 

鈴木銀


〔大風の中の渡海〕

小河城まで陸路は、今川方の寺本城に扼されている。
そこで、信長は海路を選択していた。
伊勢湾を南下し、小河城の近くで知多半島の西岸に上陸しようとしたのである。
当時は、熱田神宮のすぐ近くまで海であったのだ。
ところが、翌日は大風が吹き荒れていた。

「船頭や、水夫は、渡海は無理だといった。
しかし、信長は、『源平争乱の昔、源義経と梶原景時が逆櫓を付けるかどうかで
争ったときの風もこのようなものであったろう。
ぜひとも渡海するから、船を出すのだ』と、
強引に舟を出させ、二十里ばかりの所を一時間ほどで着岸した」

信長は、海については素人のはずである。
それなのに、専門家である船頭の意見を取り上げず、強引に船を出させた。
村木攻撃の情報が今川方に漏れることを恐れたのか。
それとも、長引けば道三が裏切る可能性が高くなると判断したのか。
確かに航海は無事であった。
しかし、船頭たちが渡海はできないといったのだから、全く安全であったわけはなく、
何%かの確率で遭難する危険性はあったはずだ。
遭難の危険が高まったとき、信長が自分の力でなし得ることは何もない。
あえていえば、熱田神宮の加護を祈るしかないだろう。
専門家の意見をも無視してしまう自信は、いったいどこから来たのだろうか。
それとも、遭難してしまえばそれまでのことという達観があったのか。

鈴木銀


〔村木砦の戦い〕

村木砦の攻撃に関しては、危地に飛び込む行動パターンはない。
しかし、前述したように信長についてのキーワードが含まれているので、
取り上げておく。
二十二日は着岸した近くで野営。
二十三日に小河城に行って情勢を聞き、そこで一泊。
二十四日払暁、小河城の兵とともに出陣し、午前八時過ぎから村木城を攻撃した。

「城の北は要害の場所であるが手薄である。東は大手(表口)、西は搦め手である。
南は深い空堀が甕形にほられ、
底に立つと対岸が見えないほどの堅固な構えになっていた。
信長は、南の攻めにくいところを受けもち、兵を配置した。
若武者たちは我劣らじと攻め上り、突き落とされてはまたはい上がるという有様で、
負傷者、死者の数も分からぬほどだった。
信長は堀の端までくると、城壁の狭間三つを鉄砲で制圧するといって、
鉄砲を取替え、引き換えして射撃した。
信長が陣頭指揮しているので、兵士たちは我も我もと攻め上り、
次々に城壁に取りついては敵を突き崩した」

信長は早くから鉄砲という武器に着目し、
家督を継ぐ前から橋本一巴を師匠として射撃の訓練をしていた。
戦陣で自らその成果を試したのはこれが初めてである。
この経験によって、信長は鉄砲のさまざまな実戦データを得た。
「取替え引き換え撃ち放した」とあるので、
そばに発射準備をするための鉄砲足軽が三、四人いたのだろう。
信長の射撃は、小説なら百発百中と書くとところだが、
『信長公記』は言及していない。
このとき今川軍には鉄砲は実戦配備されてなかった。
鉄砲と対戦するのも、おそらくこれが初めてであったろう。
轟音とともに狭間を守る兵が次々と倒れていくのを見たら、
パニックに近い状態になったはずである。
百発百中でなかったとしても、
それはそれで貴重なデータとなったであろうと思われる。

「西の搦め手は信長の叔父織田信光の攻め口で、ここもまた激しく攻めつけた。
城の外郭に六鹿という者が第一番に乗り入れた。
東の大手口は水野忠政の攻め口である。
城方の活躍も比類ないものだったが、息つくひまも与えず攻められたので、
負傷者、戦死者が続出し、しだいに兵力も減ったため、降参を申し出た。
当然攻め滅ぼすはずであったが、味方の損害も大きく、
時刻も薄暮に及んだので、謝罪を聞き入れ、その始末は水野忠政に命じた」

村木攻めは、信長の初めての城攻めである。
ほかに選択肢はなかったと思われるが、
信長は強攻し、八時間を超える戦闘で攻め落とした。
それにしても八時間は長すぎる気がする。
死に物狂いで刀や、槍を振り回すことがいかに過酷な運動であるか。
たとえば、ボクシングでは三分戦うと、一分の休憩がある。
世界選手権でも、それが十五回、つまり一時間は戦わないのである。
野戦なら「次々と新手を繰り出して」、つまりメンバーチェンジして戦うことになる。
そうでなければ、兵は気力も体力も尽き果て、動けなくなってしまう。
城ならば外郭が破られても、本丸、二の丸のように守兵がこもる要害があり、
そこを包囲したところで交代や、休憩がある。
そのようなものが村木砦にもあったのだろうか。
損害は大きかったというものの、村木攻撃は一つの成功体験になったのであろう。
以後、信長が直接指揮する城攻めは、力攻めが多く採用されることになる。
一月二十六日、那古野に帰陣した信長は安藤守就の陣所に行って礼を述べ、
村木攻めについて強風の中の渡海のことからくわしく説明した。
守就は帰国後、信長から聞いた話をそのまま伝えた。
道三は「隣にはいてほしくない、すさまじい男だ」といったという。

鈴木銀


〔弟信勝の謀反〕

村木砦攻略の二年後、弟の信勝が謀反を企てる。

「さて、信長の一番家老林通勝、その弟林美作守、柴田勝家らが相談し、
三人で信長の弟の信勝を擁立して、
謀反を企んでいるという噂があれこれと聞こえてきた。
信長は何を考えたのか、弘治二年(一五五六)五月二十六日に、
叔父の織田安房守とただ二人で、
清洲から那古屋の城にいる林通勝の所に出かけていった。
弟の美作守は『ちょうどよい機会だから、信長に腹を切らせよう』と、いった。
しかし、通勝はあまりに恥ずべきことと思ったのだろう、
『三代相恩の主君をここでおめおめと手にかけては、
天道の怒りもまことに恐ろしい。どうも決心がつきかねるので、
今は腹を切らせることはできない』といって命を助け、信長を無事帰した」

つまり、謀反の張本人のところへ二人きりでのこのこ出かけていったのである。
林兄弟は「一両日過ぎてから、敵対の意志を明らかにした」ので、
目的が説得であったのなら、成果なしに終わったのである。
様子を見るつもりなら、信長本人が行くのは危険すぎるであろう。
家督を継いでからまだ四年だが、信長の手はすでに数々の謀略で血に染まっていた。
己が行った謀略・謀殺が、自身にはね返ってくる可能性は考えなかったのだろうか。
もし、林通勝の優柔不断がなかったら、信長はここで死を迎えていた。
なぜ、そんな危険を冒したのだろうか。
林通勝は絶対に自分を殺せないという自信があったのか。
それとも、運を信じていたのか。

鈴木銀


〔稲生の戦い〕

ついに織田信勝の謀反が明らかになった。
信勝が信長直轄地であつた篠木三郷(現春日井市)を横領したのである。
これは、信勝による織田家の当主宣言であるといってよい。
さらに信勝は、庄内川の端に砦を築いて川の東部分の地も自分のものにしようとした。
それを聞いて信長は、川を渡った名塚に先んじて砦をつくり、佐久間大学を入れた。
八月二十三日、信勝方が名塚の砦に向って出陣する。
ただし、信勝自身は出陣せず、名代として柴田勝家が千人、
林佐渡守が七百人を率いて、別々に進軍してきた。
翌二十四日、信長も七百人の兵を率いて清洲から出陣。
両軍は清洲から約五キロ東の稲生原で衝突する。
信長にとって幸いだったのは、前日に降った雨で川が増水し、
信勝側がまだ合流していなかったことだ。
戦いは、正午ごろ始まった。
信長は兵を二つに分け、主力を東南の柴田勢に対して攻撃させた。
「過半の者」とあるから五百人くらいであろうか。
しかし、相手は二倍の兵力があり、織田家最強の武将柴田勝家が陣頭に立っていた。

「さんざんに叩きあって、山田次郎左衛門が討ち死にした。
首は柴田勝家が取り、信長方は手傷をうけて引き退く。
佐々木孫介そのほかの屈強な者たちが討たれて、味方は信長の前に逃れてくる。
このとき、信長の側には、織田勝左衛門、織田造酒丞、森可成、
ほかに槍持ちの中間衆が四十人ほどいるばかりだった」

信長が鍛えた親衛隊も、二倍の兵を率いる勝家にはまだ及ばなかったものと見える。
信長全半生の最大の危機であった。このとき、信長はどうしたか。

「大音声を上げて怒ったのである。」

柴田勝家の前に進み、声をはりあげて勝家を叱りつけたのであろう。
その声と、怒るさまを見て、勝家は臆した。
そうとしか考えられない。
勝家が臆さなかったら、陣頭に立つ信長を見て、
『あれぞ織田家の御敵。三郎殿の御首を頂戴せよ』
とでもいえば、それで終わっていた。
戦いは気のものである。
主将が臆したからそれが部下に伝染した。

「敵は、そのご威光に恐れて足を止め、ついに逃げ去った。」

勝家も気がつくと逃げていた。逃げながら、
「あの殿には勝てない」と思ったであろう。
 思いがけない大きな音は、確かに人を驚かす力がある。
朝鮮戦争のときの有名なエピソードである。
国連軍として参加していたフランス軍の小部隊に、中国軍が突撃をかけてきた。
このとき、だれかが手動のサイレンを鳴らした。
その音を聞いた中国軍の兵士はびっくりして、一瞬足を止めた。
次の瞬間、中国兵は全員が逃げ出していたのである。
信長の声が大きく、甲高いことはよく知られている。
しかし、声はサイレンと違ってすぐ消える。大音声に続く、
鋭い眼光、凄まじい「憤怒」の形相、
自分めがけて進んでくるその姿の迫力がなければ、
勝家を臆させることはできなかったろう。
このときの信長からは、正に鬼神も避けるような強烈なオーラが発散されていのだ。
そのようなオーラを発散するためには、
信長の心の中に強力な精神エネルギーが存在しなければならない。
そのエネルギーを発生させた源泉とは何だったのか。

鈴木銀


〔林美作守を討つ〕

柴田勢を敗走させた信長は、深追いはしなかった。

「信長は南に向かい、林美作守の手勢に攻めかかる。
黒田半平と林美作守は数時間にわたって切り合い、半平は左手を打ち落とされた。
互いに疲れ、息をついでいるところへ信長が来て、美作守に打ちかかった。
そのとき、織田勝左衛門の使用人の口中杉若の活躍がりっぱであったので、
後に杉左衛門尉と名乗らせ、侍にされた。
信長は林美作守を突き伏せ、首を取り、無念を晴らした」

たぶん、美作守も自分めがけて突進してくる信長の凄まじい形相を見て、
ひるんだのであろう。
美作守が倒れると、信長は駆け寄り、その首を取った。
この瞬間、信長は高い達成感を味わったに違いない。

デーヴ・グロスマンの『戦争における「人殺し」の心理学』に、
興味深い調査結果が記載されている。
第二次世界大戦中、敵との遭遇戦に際して、火線に並ぶアメリカ兵士一〇〇人のうち、
平均してわずか一五人から二〇人しか「自分の武器を使っていなかった」のである。
しかもその割合は、
「戦闘が一日じゅう続こうが、二日三日と続こうが」つねに一定だった。
その理由として、第二次大戦中ずっとこの問題を研究してきた
S・L・Aマーシャル将軍は、こう結論づけた。

平均的なかつ健全な・・・・者でも、同胞たる人間を殺すことに対して、
ふだんは気づかないながら内面にはやはり抵抗感を抱えているのである。
その抵抗感のゆえに、義務を免れる道さえあれば、
何とか敵の生命を奪うのを避けようとする。
・・・・・いざという瞬間に、(兵士は)良心的兵役拒否者になるのである。

これは敵の表情が見える場合や、敵とのつながり、目と目が合ってしまったとか、
敵が人間的な動作をしたときなどに強まるという。
つまり、同じ人間じゃないか、どうして殺しあうのかということであろう。
もちろん、この感情は後天的な環境によって変化する。
宗教、教育、時代背景、敵国に対する国民感情などである。
その一方で五パーセントの兵士が、敵を殺したときに達成感を覚えたという。
その中には性的興奮を感じた者もあった。
兵士にその二つのタイプがあるなら、織田信長がどちらに属するか。
考えるまでもなく、明らかである。

戦いは一方的となり、敵は敗走した。
当時は、馬というのはほとんど移動のためのもので、
騎馬武者も戦闘になれば馬を降りて戦うのが普通である。
また、名のある騎馬武者のそばには必ず三、四人の歩兵がつきそっていた。
そのうちの一人が槍持ちである。
だから、映画やテレビで騎馬隊が疾駆するシーンはみんな嘘だといっていい。
このときも、みんな馬から降りて戦った。敵が敗走したので、
騎馬武者ははじめて馬に乗る。

「みんな、それぞれの馬を引き寄せ、打ち乗っては敵を追撃し、
後から後からと首をとって戻ってきた」

このとき取った首級は四百五十以上という大勝利だった。
この戦い以降、信長の親衛隊は最強の突撃部隊となる。
信長が柴田勝家を敗走させたのを目の当たりにすれば、
全員がこの殿様といっしょなら負けることはないという自信をもったのに違いない。

「敵に攻められ、身内には背かれ、信長は孤立していた。
しかし、たびたび手柄を立てている屈強の侍衆が七、八百人もそろっているので、
合戦で一度も敗れたことはなかった」

鈴木銀


〔天王寺砦の救出〕

弟信勝の謀反の四年後に、「信長最大の賭け」といわれる桶狭間の戦いが起こる。
司馬遼太郎氏は『街道をゆく 濃尾参州記』の中で、こう述べている。

ついでながら、信長のえらさは、この若いころの奇跡ともいうべき襲撃とその勝利を、
ついに生涯みずから模倣しなかったことである。
古今の名将といわれた人たちは、自分が成功した型をその後も繰りかえすのだが、
信長にかぎってはナポレオンがそうだったように、
敵に倍する兵力と火力が集まるまで兵を動かさなかった。
勝つべくして勝った。信長自身、桶狭間は奇跡だと思っていたのである。

司馬遼太郎氏は、わたしが最も好きな作家であり、
歴史における新しい視点を次々に開いてみせてくれたという点で
尊敬する文明批評家でもある。
ただ、この信長についての見解は二つの点で疑問をもっている。
一つは、桶狭間の戦いは奇跡ではなく、
信長はある程度の成算をもっていたはずだということだ。
通説とは反するが、わたしはそう信じている。
そのことについては章を改めて詳述したい。
もう一つは、信長は桶狭間の戦いの後でも、
三倍以上の敵に対して突撃を行ったことがあるという事実だ。
桶狭間の戦いにおいて、信長が戦ったのは平滑地ではなかった。
このような地形では兵力差の効果は減殺される。
しかし、このときの突撃は平滑地であったのである。

信長最大の難敵は大阪の一向宗総本山石山本願寺であった。
本願寺との戦いは一五七〇年から、十一年も続くのである。
天正三年(一五七五)十月、信長と本願寺との間に講和が結ばれたが、
これは一時的な停戦といってよかった。
翌年四月に再び戦いが始まり、
信長は荒木村重、長岡藤孝、明智光秀、塙直政に対して本願寺攻撃の命令を下す。

「敵は楼の岸・木津の二か所に砦をもち、難波方面からの航路を確保していた。
木津を奪えば、敵の通路をいっさい断てるので、
『木津を奪い取れ』と信長は命令を下した。
天王寺砦には佐久間信栄、明智光秀を配置した。
五月三日の早朝、先陣に三好康長ほか、根来、和泉衆が、二番手に原田備中守、
それに大和、山城衆が協力して、木津に攻め寄せた。
ところが、大坂方は楼の岸から打って出て、一万ばかりの軍勢で味方を包囲してきた。
そこで数千丁の鉄砲でさんざんに撃ち込むと、敵の軍勢はひるんだ。
原田備中守はみずからその敵を引き受け、数刻の間戦ったけれど、
優勢な敵軍に囲まれ、ついに原田備中守・塙喜三郎・塙小七郎・蓑浦無右衛門・丹波小四郎らは枕を並べて討ち死にした。そのまま一揆どもは天王寺の砦へ向かい、
包囲して攻めたてた」

本願寺軍の反撃にあって、織田軍は総崩れになったのである。
天王寺は四月に塙直政が修理しただけの貧弱な砦で、堀も整っておらず、
古畳や、殺した牛馬までを盾にして防いだという状態だったという。
信長は、京都で味方が苦戦という知らせを聞くと、出陣を決意し、
諸国に陣触れを出した。

「五月五日、信長は天王寺の味方を後方から救援するために、出馬する。
鎧もつけず、ひとえものを着ただけで、わずかに百騎ほどで若江の陣に着いた。
次の日は滞在して先陣の様子を聞き、軍勢をそろえようとしたが、
とっさの出陣であったので、うまく体勢を組めなかった。
着陣するのは指揮官ばかりで、兵が追いつかないのである。
しかし、天王寺からは『あと数日間さえ持ちこたえるのはむずかしい』と、
何度も知らせてくる。このまま味方の者が眼前で攻め殺されては、
世間の非難を受けるのは必至で、それではあまりに無念だと、信長は思った。
五月七日、信長は馬を進め、一万五千ばかりの敵に、
わずか三千ほどの軍勢で立ち向かう。
軍勢を三段に配備して住吉方面から攻めかかったのである。
先陣の一段は、佐久間信盛、松永久秀、細川藤孝である。
ここで信長は、荒木村重に先陣をつとめよ、と命じたが、
村重は『われわれは木津方面の守備を引き受けましょう』といって、応じなかった。
後になって、信長は『荒木村重に先陣をさせなくてよかった』と語った。
二番手は、滝川一益・蜂屋頼隆、羽柴秀吉、丹羽長秀、稲葉良通、
氏家直元、伊賀定治である。
三番手は馬廻り衆であった。
信長自身は、先手の足軽に混じって駆けまわり、
『ここだ』『あそこだ』と指揮をとっていたところ、
鉄砲で足を撃たれ、軽傷を負った。
しかし、神のご加護のためか、何の支障もなかった。
敵は数千丁の鉄砲から降る雨のごとく弾丸を撃って防戦したが、
味方はどっと突っこんで敵陣を切り崩し、一揆どもを切り捨て、
天王寺へ駆け込んで味方と合流した」

信長は、総司令官であると同時に、前線指揮官であり、
切り込み隊長までやってのけたのである。
それだけでも並の武将でないことがよく分かる。
古今東西の名将を見渡しても、匹敵するのはマケドニアのアレキサンダー大王と、
ローマのジュリアス・シーザーぐらいなものだろう。
ただし、総司令官は切り込み隊長をすべきではない。
もし、万一のことがあったら、指揮系統が麻痺してしまうからだ。
当時においては麻痺どころではない。信長が死ねば、
軍そのものが崩壊してしまうのである。
信長もよくそれは知っていた。
だから、桶狭間の戦い以後は切り込み隊長的なことはしていない。
だからこそ、なぜこのときだけ、という疑問がわくのだ。
しかも、本願寺勢には鉄砲集団として知られる雑賀衆が参加していた。
鉄砲が数千丁というのは誇張ではない。
それでも、危険な突撃を敢行したのである。

しかし、ここからがまたすごい。

鈴木銀


〔再度の突撃〕

陣中を突破されたのに、敵は大軍であるという自負からだろう、
少しも退かず、備えを立て直す。
その様子を見て、信長はもう一度、一戦に及ぼうと決意するのである。

「このとき、家老衆がみな、『お味方は無勢です。今は合戦を控えるべきです』
と進言した。
しかし、信長は、『今、敵がこのように我われ近くに詰め寄ったのは、
天が与えたよい機会である』という。
そして、軍勢を二段に立て直すと、また敵に切りかかった。
敵を敗走させ、追撃して、大坂城の木戸口まで追い詰め、
二千七百余りの首を討ち取ったのである」

軽傷とはいえ、鉄砲の一撃を受けているのである。
支障がなかったのは、運がよかったというほかない。
それなのに、もう一度突撃しようというのだ。
すさまじいとしかいいようがない気力である。
あるいは、信長はこんなふうに考えたのかもしれない。
天王寺砦に入ったものの敵は退かず、陣を整えている。
援軍の到着以前に、
三倍以上の敵が数千丁の鉄砲をもって攻撃してきたらどうなるだろうか。
兵というものは、勢いに乗って攻撃しているときは強い。
また、最後の拠点で守っているときも強い。
しかし、思いがけない攻撃を受けたときは意外にもろいものである。
ましてや、敵は戦なれしていない一揆勢だ。部隊間の連携も十分には行えないだろう。
何もせず敵の攻撃を待つよりは、
攻撃に転じて各個撃破していく方が勝利の確率は高いと。
そして、結果はその通りになった。
再度の突撃の真相はそうだったのかもしれない。
それでも、最初の突撃のリスクまで否定することはできない。
最初の突撃のとき、荒木村重に先陣を命じたが断られた。
当時の武将は先陣を命じられると喜んだものである。
功名の立てどころだからだ。
もちろん、危険はある。
しかし、たとえ戦死したとしてもその死にざまが見事なら、
必ず後継者が取り立てられた。
そうしなければ、死を覚悟の戦いを家臣に強いることができないからである。
荒木村重は、いわゆる猛将タイプではない。
しかし、戦いにも外交にもすぐれ、一万石程度の身上から身を起こし、
この前年には攝津三十万石全域を支配下に置くほどになっていた。
信長が北陸での戦いなどで忙しく、摂津方面は村重に任せていたからではあるが、
この時期、織田家中で村重と同レベルの勢力をもっていたのは柴田勝家、
佐久間信盛などごくわずかであった。
村重にはこんなエピソードが伝えられている。
織田家中での宴席のとき、信長が刀を抜き、餅を串刺しにすると、
村重の前に進んで眼前に突きつけたというのである。
村重はたじろがず、唇を太刀に寄せると餅をむしゃむしゃ食べた。
そして、食べ終わると、自分の両袖で太刀を拭い、深々と平伏したという。
このエピソードが真実なら、村重は冷静であり、沈着であり、頭の回転も早く、
かつ豪胆な性格であったといえよう。たとえ作り話であっとしても、
エピソードというものはそれらしく作られるものだ。
その村重が先陣を拒否したのである。
冷静に状況を判断できるタイプだったからこそ、
突撃の無謀さをすぐに理解したのであろう。
それほどに勝算のない突撃だったのだ。
(ちなみに、荒木村重が謀反に踏み切るのはこの二年後である。
突撃の拒否が何らかの影響を与えたことは否定できないだろう)
信長はなぜそんなリスクの大きい突撃を敢行したのか。
自分の運を信じていたのだろうか。
それとも、ほかに理由があったのだろうか。

鈴木銀


ここで、みなさんのご意見をお聞きしたいのです。
1章と、2章。どちらが先の方がいいと重いますか。

今、わたし迷ってしまったので・・・。

鈴木銀


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 鈴木銀一郎先生のゲーム研究記事一覧


[参考] 信長 第1章【信長とはどんな男だったのか】 鈴木銀一郎

鈴木銀一郎先生が、BBS「金羊亭」で、
織田信長の研究に関する記事を掲載していますので、ご案内します。


信長 第1章 信長とはどんな男だったのか (2009年8月21日)

〔乳児体験〕

親の愛に恵まれない子だった。
織田信長、幼名吉法師は、天文三年(一五三四)五月十二日、
織田信秀の第三子として生まれた。
母は『信長公記』によれば、信秀の正室土田御前である。
信秀は古渡に城を築いて、翌年土田御前とともにそちらに移る。
信長には那古野城(名古屋市中区)を与えて、林通勝、平手政秀、
ほか二名を傅役として配した。
満一歳になるかならぬかのうちに両親から引き離されたのである。
乳児のころの信長はいわゆる燗の強い子であった。
乳母の乳首を次々に噛み切ってしまったという話が残っている。
乳母たちは、御領主様の御子ということで緊張し、
おずおずと赤子を抱いたことであろう。
信長はその緊張を敏感に感じ取る。求めているのは母の全き愛である。
赤子はその不満を口に含んでいる乳首に向け、強く噛む。
果たして本当に乳首を噛み切ったかどうかはわからない。
しかし、乳母が悲鳴を上げるほどには強く、
乳母がその役を辞退するほどに痛かったに違いない。
ここで注目すべきなのは、赤子がプイと乳首を離したのではなく、
泣いて不満を訴えたのでもなく、乳首を噛むという攻撃的な手段をとったことである。
つまり、信長は幼いときから攻撃的な性向をもっていたのである。
乳母の件はやがて解決された。ある女性が乳を含ませると、
赤子は喜んで乳を吸ったのである。その女性の抱き方や、
声のかけ方が記憶に残る母のそれと重なったのであろう。
信長はその女性を「大御乳」と呼んで敬愛した。池田恒興の母、養徳院である。
池田恒興は信長の二歳年下で、十歳のとき信長の小姓となった。
以後、最も信頼できる家臣の一人となり、信長の主要な戦いに参戦した。
本能寺の変後は秀吉に仕えた。
満足できる乳母を得たとしても、肉親の愛は得られぬままであった。
人は、普通、両親の愛情のこもった声を聞き、抱きしめられ、持ち上げられ、
手を引かれ、五感によって「愛されている」という実感を得ながら育つ。
信長は、そういう実感を得ぬまま成長した。
「三つ子の魂百まで」というが、両親の愛情不足に対する慢性的な不満と、
攻撃性は信長の生涯を通じた性向となる。

鈴木銀


〔家督を継ぐまで〕

幼児期については、『信長公記』に、
「天王坊という寺へ御登山なされ」という語句があり、
一般に「天王坊という寺で勉学した」と訳されている。
信長研究者も、それ以上ふれることはないが、
わたしは重要なキーワードだと考えている。
『信長公記』では時期は明記されていないが、
勉学のためなら数えで六歳の時と考えてよいだろう。 
天王坊とは真言宗亀尾山安養寺天王坊(名古屋市中区)であると思われる。
安養寺は明治の神仏分離令によって、現在の那古屋神社となったが、
当時は十二坊があり、天王坊はその第一坊であった。
一説では、津島神社の天王坊であるともいわれる。
どちらにしても、本尊は牛頭天王である。
牛頭天王はインドの祇園精舎の守護神で、仏教とともに日本にやってきた。
そして、スサノオノミコトと習合し、除疫、授福の神として、「天王さん」、
「天王さま」と呼ばれ、親しまれた。
牛頭天王の像は一般的には、頭に牛頭をいただき、顔に憤怒の相を浮かべ、
右手に斧、剣、矛などの武器を持つ。
幼い吉法師は、その憤怒の相をどう見たのだろうか。
信長は、後の言動から見ても、
恐怖心を抱くことがはなはだ少なかったように思える。
ならば、幼少においても、恐れより、好奇心を抱いたのではないだろうか。
「この像は何か」
と、質問したことであろう。
僧の説明で、吉法師は牛頭天王がスサノオノミコトと習合した神であることを知る。
織田の一族は、越前二の宮である剣神社の神官の出である。
吉法師はそれを知っていたと考えるのが自然であり、
スサノオの名を聞いて親しみを感じたであろう。
牛頭天王の憤怒の相は、自分が慢性的に感じている「怒り」を
代弁するものに見えたであろう。
信長は、後に津島神社(当時は牛頭天王社と称した)を自分の氏神とした。
信長は中世人であり、神仏の崇敬の念は現代人の尺度で計ってはいけない。
自分の氏神にするという行為は大きな意味をもっている。
越前を支配すると、剣神社も氏神とする。
信長が崇敬した熱田神宮の祭神は草薙剣であるが、
相殿の神の中にスサノオノミコトの名がある。
信長が、スサノオノミコトと牛頭天王を崇敬していたのは、
当時よく知られていたようだ。
摂津の茨木神社(大阪府茨木市)は、
織田軍の破壊を免れるために天石門別神社の名を隠して「牛頭天王社」と号し、
後にスサノオノミコトを合祀したほどである。

『信長公記』における、信長の次の記述は十三歳の元服であるが、
これについては後に述べる。

次が、有名な「うつけぶり」を含む一節になる。 

本書において、何の説明もなく「 」でくくって記述しているのは
『信長公記』の口語訳である。ただし、逐語訳ではない。
改行は原文に関係なく行っているし、敬語は必要以外省いてある。
固有名詞に説明を加えている場合、
逆に本筋と関係ない固有名詞は省略している場合もある。
意訳もしているが、大きな意訳の場合は必ず注釈をつけている。
『信長公記』は、講談のように読み聞かせた場合もあって、
調子がいいものであり、逐語訳では、その雰囲気は出ない。
また、本書の読者は、歴史に興味のある一般読者を想定しているので、
その方が理解しやすいと考えたからでもある。

「信長は十六、十七、十八までは、別に遊びごとはしなかった。
朝夕に乗馬の稽古。三月から九月までは川で水練をするので、
泳ぎはとても達者だった。
折りにふれて、小姓や中間たちに竹槍で模擬戦闘をさせ、
「とにかく、槍は長い方が有利だ」といって、
三間槍や、三間半の槍を作らせていた。
そのころの身なりといえば、湯帷子の袖を外し、短い袴で、
火打ち袋などをいろいろと身につけ、髪は茶せんまげにして、
もとどりを紅や萌黄色の糸で巻き、朱鞘の太刀を差し、
お付きの者の武具をみな朱色にさせていた。
市川大介を召し寄せて弓の稽古。橋本一巴を師匠にして鉄砲の稽古。
平田三位をいつも召し寄せて兵法の稽古。鷹狩りも行った。
見苦しい習慣もあった。町を通るときは、人目をはばかることなく、
栗や柿はいうまでもなく、瓜までもかぶりついて食べた。
町中で立ちながら餅をほおばり、人に寄りかかり、
人の肩にぶら下がるような歩き方しかしなかった。」

いでたちは「抵抗する若者」の典型であり、目立ちたがり屋のそれである。
行動は、行儀も何もあったものではない。人々は「大うつけ」としか呼ばなかった。
傅訳の平手政秀は一生懸命吉法師をしつけようとしたに違いない。
しかし、結果は放任主義と同じになってしまった。
愛を知らず、我慢を強制されずに育つ。
現代風にいえば、信長はスポイルされて育った。
さらに、その身分から、信長には人を見下す癖がついていた。
見下した態度を取れば取るほど、人は命令に服することも知った。
ただし、これには大きなデメリットももたらす。
これは、言葉不足、説明不足という行動パターンである。
人は言葉を二つの局面で使用する。
一つは心の内面における思考形成のツールとしてであり、
もう一つは対外的なコミュニケーションのツールとしてである。
思考形成についての限界は、その人間がもつ語彙であり、
それに含まれる概念である。
つまり、知る限りの言葉を自由に使うことができる。
しかし、コミュニケーション、特に相手を説得しようとする場合は、
言葉の使用は自由ではない。相手や状況によって、
言葉を取捨選択しなくてはならない。
それには経験による訓練が必要である。
しかし、信長はその訓練の機会を自ら捨てさった。
相手を見下して、(威圧的な態度で)命令さえすれば、要求が通ったからである。
信長は欲することだけを命令し、知りたいことだけを質問した。
ついに説得技術の訓練は行われなかったのである。
合理的な思考というのは、原因と結果とを常識とか、先入観に囚われずに、
自分で考えて結びつけるという思考形態であり、
信長の生涯を通じて変わっていない。
前出の引用のも、竹槍の模擬戦闘を見て、
「槍は長い方が有利」という結論を出している。
合理的思考という思考パターンはこのころには完成したと見てもよいだろう。

引用では、学問について何も触れていない。
そこで、信長は軍事以外の勉学は嫌いであり、
一般教養が足りなかったとする説さえある。
確かに、信長には漢詩や、和歌をつくったという記録はない。
だからといって、教養はなかったのだろうか。
十六、十七、十八歳といえば、遊びたい盛りであろう。
しかし、ひたすら兵法や武芸の鍛錬に明け暮れている。
これは強烈な向上心を持ち合わせていたと考えるしかない。
また、後年ポルトガルの宣教師たちに対して見せた貪欲な知識欲は、
成年になってから急に現れたとは思えない。
青年期もまた、そうであったろう。
向上心と、知識欲を合わせれば、
天王坊における吉法師は優秀な生徒であったはずである。
青年期に勉学の記述がないのは、その時すでに、
学ぶべきことは学んでしまったからだと考えたい。
つまり、武将に必要な漢籍の素養は充分にあったのである。

この章の目的は、読者に信長の全体像を想像できるまで、
その精神構造を細分化し、提供することにある。
信長の全体像は家督を継いでから、変化を始める。
まずは、謀略・謀殺と、有能な前線指揮官としての要素が入る。
さらに、年を経るほどに複雑になり、常人には把握することはむずかしい。
残忍性、殺人嗜好、自己の神格化などの要素が加わってくるからである。
しかし、信長が家督を握るまでと限定すれば、
われわれ常人でも何とか想像できないことはない。
ここまで述べてきたことで、信長の基本的な性向はほぼでそろったといえる。

肉親の愛の不足と、それに対する絶えざる不満。
そこからくる怒りっぽさ。
攻撃的な性向。
放任主義による自分本位な考え方。
相手を見下し、威圧する態度。
命令口調。
説明力不足。
合理的思考。
旺盛な知識欲、好奇心。
高い向上心と、学習能力。
訓練された身体機能。
目立ちたがり屋。
常識無視、さらにその発展型である体制否定。
牛頭天王への崇敬。さらに、牛頭天王と自己の同一視。
これに、肉体的には鍛え抜かれた身体能力が加わる。

年齢は、現代からいえば高校生である。
学業、体育、ともに学内一といってもいいほど抜きん出て優秀である。
容貌はポルトガル人が信長の死後描いたという肖像を見ると、
細面で、意志が強そうな印象を受けるが、イケ面といっていいだろう。
これだけなら、アイドルになるはずである。ただ、生まれはいいのだが、
家庭環境に難があって、自分勝手な面が強すぎる。
現代なら仲間外れにされることだろうが、
信長の場合は、中世における領主の嫡男である。
その男の無理は何でも通ってしまうのである。
こういえば、青年信長の全体像がつかめてくるのではないか。
残っているのは、理想主義者としての側面である。

鈴木銀


〔戦国武将と禅宗〕

戦国武将は常に死を意識して日々を送っていたであろう。
いつやってくるかもしれない死に対し、どう向き合ったらいいのか。
それと同時に、(全員ではないにしても)相手を殺した場合には、
犯した殺生戒について考えざるを得なかったろう。
戦国武将は戦闘指揮官であるが、領主としての側面もあった。
むしろその方が重要の場合が多かったろう。
その領主としての心がまえ、つまり一種の帝王学はだれかから学ばねばならなかった。
戦国武将の多くはそれらを禅宗の僧に託した。
そのほか、禅寺は武将の幼い後継者候補の教育機関であった。
また、禅僧はしばしば使僧(外交僧)の役割も果たしている。
禅宗と深い関係があった武将をあげてみよう。 
一介の浪人から身を起こして国持ち大名となり、
戦国時代の幕開けを行った北条早雲は
若いころ大徳寺などの京都の禅寺で修行していた。
もっとも、経典を読むより兵略書を読む方を好んでいた形跡もある。
上杉謙信は七歳のとき春日山城下の曹洞宗寺院林泉寺に入れられ、
十四歳までの七年間天室光育から厳しい禅林教育を受けたとされる。
武田信玄も五山派の禅院である甲斐長善寺の岐秀元伯のもとに参禅し、
その影響を受けた。
徳川家康は今川氏の人質時代、今川義元の師であり、
ブレーンであった臨済宗の太原雪斎から教育を受けた。
伊達政宗も、岐秀元伯の弟子である虎哉宗乙の教えを受けている。
正宗が「独眼竜」と名乗ったのも宗乙の示唆であったと考えられている。
安国寺恵ケイは、禅僧のまま六万石を領する大名となった。
そして、徳川家康の師ともなった太原雪斎は、たびたび総大将となって出陣し、
織田信秀と戦い、勝利を収めている。異色ともいえる禅僧であった。

鈴木銀


〔沢彦と信長〕

織田吉法師が、織田三郎信長となったのは十三歳元服の時である。
三郎という名は、信秀も名乗っていた名である。それを与えることで、
父は信長に織田家の家督を継ぐ者という権威を授けたと見ていいだろう。
そして、信長という名は臨済宗妙心寺派の禅僧沢彦宗恩が考えた名であるとされる。
沢彦の生年は、永正三年(一五〇六)であるようだ。
信長の傅役(守役)であった平手政秀の正室仙の叔父にあたり、
本姓は舎人だったという。
諸国行脚の末、永泉寺(犬山市)の泰秀宗韓に参禅して、その印可を受けた。
この永泉寺を菩提寺としていたのが平手政秀であった。
当然、政秀がこの命名にはからんでいたことだろう。
「信長」という名には「反切」という漢字二字を用いて
一つの漢字音を表す呪術的な手法によって、
「天下を制する」という暗喩が込められている。
上の字の頭子音と、下の字の韻とを合わせ、できた字に心願成就を託するのである。
この手法によれば、「信」の子音「S」と、「長」の韻「OU」が合致すると、「桑」(SOU)になる。
日本は、古来から「扶桑」と呼ばれていたので、「桑」は日本を表す。
「信長」=「日本」
つまり、信長が天下を制するという暗喩なのである。

信長は元服の際、自分の名が禅僧沢彦によって選ばれたことを知った。
これが推理の第一歩である。
たぶん、「天下を制する」という意味も聞かされただろう。
元服というめでたい席で、儀式の後は酒宴も開かれた。
もちろん、守役である平手政秀も列席している。
そういう話が出なかったはずはない。
ましてや、選んだ沢彦は政秀の縁者である。
「三郎様、あなたの信長という名は実に縁起のよい名でございますぞ」
平手政秀は酒が好きであった。
ほろ酔いかげんで、得意気な政秀の顔が目の前に浮かんできそうではないか。
信長は知識欲旺盛な十三歳の少年である。
自分の名の由来が興味を引かないということはない。
沢彦という禅僧が自分の傅訳の縁者で、隣国に住んでいるのを知れば、
必ずこういったはずである。
「俺はその和尚に会ってみたい。会って、もっとくわしい話が聞きたいのだ。
爺、その偉い和尚とやらを那古野に呼んでくれないか」
政秀は喜んで沢彦を呼んだであろう。
沢彦には、その招きを拒否する理由はない。
那古野城を訪れた沢彦を、
信長は、後にイエズス会宣教師ルイス・フロイスに対したときと同じように、
質問攻めにしたであろう。
質問は、いずれ「天下を制する」ということに及んだはずである。
ここで、沢彦が「印可を受けた」禅僧であるということが重要なポイントとなる。
これまでの歴史研究は、あまりにも宗教について無関心でありすぎたのではないか。
禅宗における「印可」とは、師僧が弟子に対し、
「明らかに悟りを得ており、円熟の境地にある」という証明である。
沢彦はこのとき四十歳。その人柄についての記述はなく、
信長にどんな話をしたかはわからない。
しかし、悟りを開き、円熟した境地にあると師が認めた人物である。
沢彦は、目の前にいる十三歳の少年が将来織田家の当主となる可能性が
高いことを知っている。
自分の言葉が、尾張に住む人々が影響を及ぼすことを
体に痛みを感じるほどに分かっている。
師との問答よりも全身全霊で一語一語を選び、少年にも理解できる言葉で、
為政者としての心がまえを説いたであろう。
信長が天王坊で学んだのは漢籍の読解だけであったろうと思われる。
沢彦の君主論を聞いて、信長も、初めて「師を得た」と感じたでことであろう。
「天下」を説明するためには、中国の歴史、
いくつもの王朝の興亡を説明しなくてはならない。
そして、その原理である「天命思想」や「易姓革命」も。
君主は天帝からの天命によって国を統治するという考えが「天命思想」である。
その君主の徳が失われると、相次いで旱魃や洪水などの天災が起こり、
国内が混乱する。すると新しい英雄が現れて、
王朝を倒し、天帝からの天命を受けて、新しい王朝を建てる。
君主の姓が変わる、つまり、「易姓革命」である。

「では、徳とは何か」。
次の質問は当然そうなるはずである。
そもそも「武」という文字は「戈を止めて用いない」という意味がある。
沢彦は周王朝の始祖である武王の「七徳の武」を語ったに違いない。
後に、沢彦が命名した「岐阜」という地名の「岐」は、
周の一族が拠ったという「岐山」からきている。
当時の教養人である沢彦は、当然、武王にまつわる故事にくわしかった。
「七徳の武」というのは、武によって
 禁暴  暴力を禁じ
 しゅう*兵  戦争をやめ   *=(口の下に耳)偏に戈
 保大  大国を保持し
 定功  功を定め
 安民  民を安らかにし
 和衆  衆を和合させ
 豊財  物資を豊富にする
という七つの徳をもたらすことである。
最後の三つの徳については、
十三歳の領主の息子にはよく理解できなかったであろう。
そこで沢彦は、まず民のことを知るべきだと説いたであろうと思われる。
「民がどんな暮らしをしているか、それをお知りになりなさい。
また、民が何を喜ぶのか、何に苦しんでいるのか、
何に悲しむのかも知る必要があります。
民の本当の姿を知るためには、民とお話なさいませ。
お側の方だけと話していたのでは、それは分かりません」
もちろん、実際にこういったという資料は一つもない。
しかし、沢彦が禅というフィルターでろ過した徳を語ったことは疑いないと思われる。
それは禅問答のような分かりにくい手法ではなく、
十三歳の少年が理解できる言葉で語られたであろう。
そして、最後に「日本とは」という問いになる。
あるいは順序は逆かもしれないが、それはどちらでもかまわない。
「日本の君主とはだれなのか」、「その君主は徳をもっているのか」、
「もし、徳をもっていなかったらどうなるのか」。
それに対し沢彦がどう答えたかは、これも分からない。
ただ、現状の説明は行ったであろう。
天皇のこと、幕府のこと、各地の守護大名のこと。公家のこと、寺社のこと。
信長と、沢彦との会話は一日で終わったはずはない。
事情が許す限り、沢彦は那古野城に滞在した。
いったん美濃に帰り、またやってきた。
一年かかったか、あるいは二年かかったか、信長は沢彦の思想を吸収した。
ただし、思想というものは吸収するときは言葉の断片一つ、一つとして入ってくる。
それらは頭の中で再構築されなければ、信長の思想とはならない。  
信長はまだ「現実」というものに直面しておらず、再構築に当たって、
「現実」が思想をたわめることはない。
こうして、理想主義者の信長が誕生したのである。
理想主義の目で世の中を見てみれば、何と矛盾の多いことか。
信長はまだ政務を執ることはない。暇はあり余っている。
師の教えに従って、領民たちと話しただろう。
そのときは、格式ばった身なりは邪魔になる。
領主の後継者とは思えないかっこうで町を歩き、観察し、会話する。
現実を知れば知るほど、矛盾の多いことに気がつく。
ただ、信長が見たと思ったものは現実の真の姿ではない。
信長、十三歳。見た目の現実の裏にある歴史の積み重ねを知らない。
その重みを実感していない。
それでも、いや、それだからこそというべきだろう、信長は決意する。
「この矛盾を自分が解決する。そして、新しい世の中をつくる」と。

天文二十年(一五五一)三月三日、父信秀は急な病で死亡した。
家督をだれが継ぐかについての公式の発表は行われずじまいだった、
とわたしは推察している。
信長は十八歳にして、現実と直面したのである。

鈴木銀


第1章をとにかく書き上げました。
まだまだ手を入れなければ、とも感じていますので、
ご意見、ご感想をお聞かせください。
みなさんは、わたしのモニターです。

鈴木銀


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 TCGについての研究報告 (日本シミュレーション&ゲーミング学会)

 ゲームを研究する *

 わたしとRPG *

 古い時代の回想録 *

    * 「鈴木銀一郎のBBS金羊亭」に同じ記事あり


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  ゲームの進化をたどる(下) カードゲームが大ヒットした理由

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DEAの閉校に思う

DEAは、ゲーム系企業が出資して作ったゲームクリエーター養成校の一つである。
フルネームは、「デジタル・エンタテインメント・アカデミー」という。
正式には学校法人ではなく、ゲーム会社付属の訓練センターに近い。

私は、鈴木銀一郎先生の紹介で一度だけDEAの教壇に立ったことがある。
そのときは、ゲームにまつわる自然法則や数理のこと、
美しいと感じている現象、シミュレーションの題材の探し方や評価の方法、
などを熱く語った。

学長の平野雅一郎氏とお話をしたことがあるが、
生徒を育成する心構えは大学レベルのものを感じていた。
あえて学校法人にしなかった理由は、
カリキュラムを国に束縛されたくなかったからだという。
授業の内容は高いレベルが維持されている。
在籍さえしていればゲーム会社に就職できるほど安易ではない。
努力して実力を身につけなければ進級できない。
学生の作品は、CESAの主催するゲーム制作コンテストで
ほぼ毎年のように大賞や優秀賞を獲得している。
生徒からは技術や知識を身につけたいという気迫が伝わってきたので、
教育に熱心な、いい学校だと感心していた。

そのDEAが2009年の3月末で閉校となった。
まことに残念な話である。

DEAの閉校が決まったのは突然ではなく、2007年秋に
新規の学生募集を停止することで明らかになった。
少子化の影響や一般大学がエンタテイメント専修コースを創設したことなどの要因が
後の著書「DEA 式ゲーム制作者養成手法」のなかで説明されているが、
ソフト開発(グラフィックとコーディング)の海外への発注機会が増えたことで
国内の開発要員の需要が減ったことも一因と推測する。

それを裏付けるかのように、DEAの出資企業(=卒業生を受け入れる会社)
は、目まぐるしく入れ変わっている。
設立時から一貫して出資を維持したのはスクウェアエニックスだけで、
閉校後の事務所はスクウェアエニックスの社内に置かれた。

状況としては以上であるが、この分野が産業として衰退しているわけではなく、
デジタル・エンタテインメントのノウハウを持つ人を育成する必要性は
今後これまで以上に高まると思う。
必要とされる技術が高度化していることを考えると、
総合大学の担う役割が大きくなっていくのかもしれない。

DEA在籍中に頑張っていた生徒の方は、
卒業就職後も各企業で実力を発揮しているものと確信します。

柴崎銀河


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日本シミュレーション&ゲーミング学会がNPO法人の認可を受けた

日本シミュレーション&ゲーミング学会、
略称JASAG (http://www.jasag.org/)が
創立20周年の今年、NPO法人(特定非営利活動法人)の認可を受け、
気分を一新して出発した。
この学会は、ゲーミングという手法、すなわち、
ゲームをプレイすることでプレイヤーが柔軟な思考を獲得する手法、
それを学術的に研究する団体である。
市販されているゲームが道具として役立つことも多く、
また、実際の社会・産業や自然に潜む法則を縮図化したゲーム
「シミュレーション」もそういった道具として特に有用であることが
認められているので、学会名に冠されている。
現在の会長は千葉工業大学教授の土谷茂久氏である。

2009年5月16日に慶應義塾大学で開催された
日本シミュレーション&ゲーミング学会の総会では、
これまでの任意団体としての学会の解散が承認され、
NPO法人への正式な移行と新しい門出が報告された。
私はこの学会の会員でもあり、会の発展に期待を寄せている。