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[参考] シミュレーションゲームとわたし 鈴木銀一郎

鈴木銀一郎先生が、BBS「金羊亭」で、
シミュレーションゲーム研究に関する記事を掲載していますので、ご案内します。


シミュレーションゲームとわたし  (2009年8月4日)

40代になって間もなくのこと。
ある日曜日の朝、次男がにやにやしながらいった。
「パパ、ウォーゲームって知ってる?」
「知らないけど、戦争ゲームって意味かい」
「そうだよ、深夜放送で聞いたんだけど、アメリカで流行っているんだって。
日本にも少し輸入されているそうだよ」
わたしは、もともと戦争に強い興味を抱いていた。
当時は、そんなことをいったら、
それだけで平和に反する人間だと決めつける風潮があった。
しかし、世界の歴史はある意味で戦争の歴史であるし、
社会構造の変化や、技術革新も戦争を抜きにして語ることはできない。
わたしは熱烈な平和主義者だは、平和を守るためには、
戦争のメカニズムを知らなければならないと主張してきた。
(まあ、それは半分は建前で、戦争の持つダイナミズムや、
 その中で歴史上の人物が果たした役割に対して、
 純粋に興味を持っていたことも事実である)
だから、戦争をテーマにしたゲームが流行っていると聞いて、
じっとしていられるはずがなかった。
わたしは、さっそくデパートに出かけた。
それを予測して、次男はにやにやしていたに違いない。
デパートの売り場の一角には、3種類のウォーゲーム
(現在ではシミュレーション・ゲームと呼ばれている)が並んでいた。
店員に聞くと、他のゲームは売り切れたとのことだった。
「1か月ぐらいすれば、また輸入されるはずですけど」
わたしは『電撃戦』というゲームを選んで買った。
値段は6800円だった。

これは1996年に出版された『ゲーム的人生ろん』に書いた1節である。
わたしは、たちまちウォーゲームの魅力にとりつかれてしまった。
そのころのわたしは編集者であり、アメリカで流行ったものは
2,3年すれば日本でも流行ると信じていた。
「日本で流行るとき、それに携わりたい」とわたしは思った。

シミュレーションゲームについて日記を書くという約束をしたとき、
最初に頭に浮かんだのが冒頭の文章だった。
どうしてもここから始まらなくてはならない。
しかし、なぜかためらいがあった。
何故なのか。
それを考える時間が必要だった。
わたしは、日本における最初のシミュレーションゲームのブームに、
最も影響をもたらした人間であることを否定しないし、それを誇りにも思っている。
ただし、それはわたしの才能のせいではない。
当時、シミュレーションゲームのブームに寄与した人々は皆若かった。
その中で、わたしは40代という年齢によって代弁者という役割を果たしたからである。
当時のことを思い出し、それに思い当たった。
それで書き始める決心がついたのである。
たぶん、シミュレーションゲームに対する一種の「意識のシンクロナイズ」が
あったのであろう。
多くの人々の才能と、熱気が、
(それはデザイナーだけでなく、ゲーマーを含めたものだが)
ブームを起こしたのである。
(ただし、当時は「ゲームデザイナー」という言葉も、
 「ゲーマー」という言葉も、まだ生まれていなかった)
それは国産ウォーゲームが発売された時期が、
エポック社・バンダイ・ツクダホビー・ホビージャパンの4社とも
同じ年だったことからも分かることである。
1981年のことである。

鈴木銀


SLGとわたし(2)  (2009年8月8日)

『電撃戦』のパッケージを開けたときの第一印象は、「何だこれは」だった。
それまでの、ボードゲームとは全く違っていたからである。
盤のマス目は6角形。(これはすぐ納得できた)
駒は厚紙で、しかも、1つ1つが切り離されていない。
駒の数はやたらと多くて、印刷されているのは記号と数字だけ。
ルールブックはやたらと厚い。

取り合えず、ルールブックを読む。
ゲームは架空の大陸における2大強国の戦いで、
兵種は明らかに第2次大戦のものであった。
次に、駒を台紙から外し、ゲーム開始時に登場するユニットを選び
(これがまた時間がかかった)、盤に配置した。
ルールには、配置の条件だけが書いてあるだけなので、
どこに配置するのが最適なのか・・・。これまた時間がかかる。

両軍の配置を終わり、一方の軍を移動させる。
(全てのユニットを移動させてもよいか、なるほど、なるほど)
移動は、相手ユニットの「支配地域」に入ると終了?支配地域(ZOC)とは何だ。
移動が終わって、接している敵ユニットを攻撃する。
戦闘の結果は、攻撃力の合計と、
防御力の合計を一方が1である簡単な比に直して・・・。(ふむ、ふむ)
結局、その日は最初の戦闘がおわったところで終了した。

それでも、ウォーゲームがどんなものかという、おぼろげな全体像はつかめた。
「これぞ、望んでいたゲームだ。すばらしい」
そのころ、男が一度やってみたい職業として、オーケストラの指揮者と、
連合艦隊の司令長官が挙げられていた。
ウォーゲームは、その夢を果たすものだと感じた。
しかも、ルールは、考えうる限り(とそのときは思った)
現実を模すものになっている。
わたしは、すっかりウォーゲームに魅せられ、休日は一日中プレイに明け暮れた。
最初は、息子たちとプレイしたが、
ウォーゲームというものは何せ時間がかかるもので、すぐに拒否されるようになった。
誘っても、「今日は宿題があるから」というわけで、
普通の御家庭とは逆のシチュエーションである。

そこで、必然的にソロプレイということになる。
幸か不幸か、ウォーゲームというものは、
ほとんどがソロプレイに向いているのである。

1か月たってデパートに行ったが、新しいゲームはまだ入荷していなかった。
仕方なく、『電撃戦』をやりまくった。
そうすると、いろいろルールに不満がでてきた。
「ここをこう変えたら、もっと面白くなるのではないか」
そのようにやってみると、確かに面白いのである。
「これなら、新しいウォーゲームをデザインできるのではないか」
それが、わたしがゲームデザイナーの道を歩み始めた第1歩だった。

鈴木銀


SLGとわたし(3)  (2009年8月12日)

『電撃戦』のソロプレイに明け暮れて3か月。
やっと、新しいゲームが入荷した。
わたしは、『バルジの戦い』と、もう1つ(何だったかは忘れた)を買った。
パッケージを開けてみて、コマ(ユニット)の色の鮮やかさに驚いた。
『電撃戦』のユニットは、マップと擦れて端がすっかり白くなっていたからだった。
『バルジの戦い』が、わたしの次のお気に入りになった。
『電撃戦』はプレイ時間がやたらと長く、1日では終わらないのに対して、
『バルジ』は1日あれば終了させることができた。
それに、何よりもゲーム展開にストーリィがあった。
1943年12月、ヒトラーは最後の賭けともいうべき
大攻勢を西部戦線のアルデンヌで仕かける。
この攻勢は、米軍の不意をつき、ドイツ装甲軍団は第1線を突破、
「クリスマスはパリで」を合言葉に進撃を続ける。
しかし、南方からはパットンの第3軍が、北からはイギリス軍が援軍として現れ、
攻勢は頓挫する。
わたしは戦記物の『バルジの戦い』を読んでいたので、
戦況の推移はよく知っていた。
(『バルジの戦い』が出版されたとき、わたしは出版社の契約社員になったばかりで、
とにかく貧乏していた。勤務先が神保町だったので、昼休みには書店で立ち読みの
「はしご」をして、とうとう1冊を読んでしまった)
その追体験ができるとは、何と素晴らしいゲームであることか。
援軍が間に合うかどうか・・・。その絶妙のバランスにわたしは驚嘆した。
ただ、このゲームにはどういうわけか英軍が登場しないのである。
アメリカ製なので、英軍なんかいなくても勝てたことを示したかったのか?
その疑問はとうとう解決されなかった。
(後に、改良バージョンが発売され、それには英軍が登場した。
 しかし、橋を破壊するかどうとか、いろいろなルールも追加されて、
 シンプルな面白さにおいては、大分損なわれたと感じた)
「自分がデザインするなら、英軍入りで面白いものをつくろう」
と、心に決めたのを覚えている。

しかし、わたしが実際にデザインに着手したのは、
44年6月のノルマンディ上陸作戦だった。
この戦いは、『The Longest day』(史上最大の作戦)として、
映画化もされヒットした。
(『バルジの戦い』も映画化されたが、これはひどい作品だった)
わたしはコーネリアス・ライアンの同名の戦記のほかに、
独軍側から記述したパウル・カレルの『彼らは来た』を持っていたので、
こちらの方が資料的にはそろっていると思ったからである。
わたしは『彼らは来た』を読み返しながら、
その戦いに参加した両軍の師団の名を書き出していった。

鈴木銀


SLGとわたし(4) 史上最大の作戦  (2009年8月16日)

今から考えれば不充分なリサーチだったけど、
とりあえず「Order of Battle」はできた。
戦闘の解決方については、両軍の戦力比をどちらかを1にした簡単な比に直して
ダイスを振るという「Odds system」を使う気はなかった。
ノルマンディの戦いでは、大規模な戦闘もあれば、小規模な戦闘もあった。
オッズシステムだと、戦力が、40対20も、4対2も、
同じ2:1として判定される。それが不満だったのである。
それで、火力によって相手に与えるダメージを算定する方式を採用した。
これは「Fire power system」として、使われているのを後に知った。

因みに、他のシステムとしては両軍の戦力差を用いた「Defferential system」
があり、わたしも『日本機動部隊』の「戦闘結果表」で用いた。
後に、何でディファレンシャルシステムを使ったのかと質問され、困った記憶がある。
それこそ「勘」で使ってみたら成功したというだけのものだからだ。
もう1つ、SLGではわたしが初めて使ったシステムがある。
(他のジャンルでは、よくあるシステムだが・・・)
『ロンメルアフリカ軍団』で採用した「6が出るとヒット」システムである。
今でこそ認知されているシステムだが、発表当時は賛否両論があった。
ある人は、わたしに向かってはっきりいった。
「鈴木さん、6が出るとダメージなんて、シミュレーションじゃないですよ」
かれにとっては、アメリカで使用されているシステム以外は異端であったのである。
(後に、アメリカでも「6がヒット」システムを使ったゲームが登場する)

最初の『史上最大の作戦』で最も苦労したのが、マップとコマだった。
当時は、ヘックスのブランクマップも、ブランクユニットも手に入れる術がなかった。

仕方なく、マップは四角と丸を組み合わせた小学生用の漢字練習帳をつなげて使った。
ユニットはプラ板と、アクリル板を12ミリ四方に切り、
インレタで数字などを転写した。
このユニット造りには半年近くかかった気がする。

準備が整い、ある土曜日の朝から作戦は開始された。
わたしは、カセット(まだCDはなかった)でベートーベンの「運命」をかけ、
空挺部隊を降下させた。
「運命」は映画でもつかわれた。
「ダ・ダ・ダ・ダーン」はモールス信号の「V」(victoryの頭文字)に相当するのである。

プレイは翌日の夕方過ぎ、連合軍の勝利が見えたところで終わった。
「ああ、おも白かった」
わたしは、口に出してそういった。
ゲームをつくるのに要した、時間と手間を考えたら、
口に出さないではいられない気分だったのである。
ただし、ユニットは整理せず、箱に流し込んだ。
もう一度プレイして、手を入れることは考えなかった。
40時間近いゲームが市販されることはありえなかったからである。

5月に引越しの準備をしていた時、その時のユニットの生き残りがいくつか出てきた。
懐かしかったが、もちろん捨てた。

鈴木銀


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