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[参考] 信長 第6章【桶狭間の戦いの真実】 鈴木銀一郎

鈴木銀一郎先生が、BBS「金羊亭」で、
織田信長の研究に関する記事を掲載していますので、ご案内します。


信長 第6章 桶狭間の戦いの真実 (2009年8月26日)

〔浮かび上がる疑問〕

日本の合戦で、最も多く取り上げられたのは桶狭間の戦いに間違いない。
だから、新しい発見などもうあり得ないと思い、
定説に「予定戦場における兵力の優勢」と、
「戦いの中心」いう視点を加えて再現したのが、前章である。
ところが、すっきりしない思いが残った。
そういうときは、全ての常識や、先入観を捨て、
調べるというのが「シミュレーション発想」である。
すると、次から次へと、たくさんの疑問が見つかったのである。

(1) 義元はなぜ中島砦を占領しなかったのか
(2) 義元はなぜ桶狭間山で休息したのか
(3) 信長はなぜ敵兵が疲れ果てているといったのか
(4) 鷲津・丸根攻略隊はその後どう行動したのか
(5) 佐々・千秋の突撃隊の目的は何だったのか
(6) 義元の侵攻目的は何であったのか
(7) 義元が投入した兵力はどのくらいだったのか

これらの疑問がすべて、
ジグソーパズルのようにしかるべき場所に収まらないかぎり、
桶狭間の戦いの謎は解明されたとはいえないであろう。
この中で、わたしが最大の疑問と思ったのは、
「なぜ義元は中島砦を占領しなかったのか」ということである。
善照寺砦と中島砦を結ぶのは細い一本道で、その周りは深田である。
つまり、中島砦は隘路を扼する一方で、そこからは自由に南方に兵力を展開できる。
つまり、戦略上重要な拠点なのである。
今川方が中島砦を占拠していれば、沓掛~大高の交通路は安全に確保できる。
逆に、織田方が占拠していれば、
織田軍はいつでもそこから交通路を脅かすことができる。
実際に、信長は中島砦を攻勢発起点として、今川勢を破っているのである。
戦国時代の軍学の集大成は、後十年ほど待たねばならないが、
このような戦略上の拠点についてはすでに常識になっている。
太原雪斎の薫陶を受けていた義元が、
この砦の重要性に気づかなかったとは考えられない。
中島砦を奪取する時間も、兵員もたっぷりあった。
沓掛城から桶狭間までが、七・四キロメートル。
そこから中島砦まで二・七キロメートル。
十八日の朝に、千か二千の支隊を送れば、昼には楽に奪取できたはずである。
そうすれば、以後の作戦は側面を気にせず、スムーズに遂行できたであろう。
なぜ、そうしなかったのか。
ここで、第二の疑問、「義元はなぜ桶狭間山で休息したのか」が湧いてくる。
五月十九日は現在の暦では六月二十二日であり、非常に暑い日であった。
長い行軍の途中で一息入れるのは、当たり前のような気がする。
わたしも当初そう考えていた。
しかし、実際の距離を調べてみると、納得できない点がでてきた。
沓掛~桶狭間山は約二時間の行程でしかないのだ。
さらに、桶狭間山~大高城の距離もそんなものである。
もし、義元が大高城を起点とした攻勢を意図していたなら、
朝早く(たとえば午前七時に)沓掛を出発すれば、
正午には楽に大高城に到着できていたのである。
中世の人々は、現代人に比べればはるかに早起きであった。
ましてここは軍陣である。兵士たちは夜明けともに起き、朝食をとる。
義元だけが朝が弱いタイプとは思えない。
義元は幼いころから禅寺で修業していたから、
夜明けの起床は身についていたはずだ。
当日の夜明けは四時半ごろである。
前夜に通達しておけば、午前六時には第一陣が出発できたろう。
そうすれば、陽が高くなり、気温が上がる前に大高城に到着できたはずである。
それなのに、昼近い時刻に桶狭間山で「人馬に息を入れた」のはなぜなのだろうか。

鈴木銀


〔信長は事実誤認をしたのか〕

第三の疑念である。
信長は、中島砦から攻勢に出ようとしたとき、兵士たちに演説した。
その中に、「あそこにいる敵は、前の晩兵糧をとっただけで、夜通し歩き続け、
大高に兵糧を入れ、鷲津・丸根では手を焼き、疲れ果てた連中だ。
それに対して、こちらは新手である」という一節がある。
これまでの説は、目の前にいる敵は前軍であり、
それを信長が鷲津・丸根攻撃隊と誤認したのだとしている。
牛一は信長の事実誤認も隠さずに書いており、
だから『信長公記』の合戦の記事は信用できるの、という論理である。
果たして、そうなのだろうか。
この演説は、現場で録音したものをそのまま原稿に起こしたものではない。
何年もたってから一語一語を吟味し、推敲した結果の文章である。
また、合戦の模様を描写したものではなく、
その合間の信長の行為を描いたものである。
合戦の模様、例えば、いつ、だれが、どの方向に向かって攻撃したという記事なら、
全面的に信用してもいい。
しかし、信長が事実誤認をしていたなら、牛一がそのまま書いただろうか。
牛一は、『信長公記』の中で信長への批判は一つも書いていない。
その行為は全て正当化して書いているのである。
例えば、伯父織田信光暗殺については、こう書かれている。

「その年の十一月二十六日、不慮の出来事によって信光は死去した。
誓紙による約束を破った罰が下ったのである。
まことに天道は恐ろしいものだと、人々はいい合った。
しかし、信長にとっては正しい御政道の結果の果報だった。」

信光の死は天罰だったが、
信長はその正しい治世によって果報を得たというのである。
あまりにも身びいきが過ぎないだろうか。
ただし、牛一は信光の死に「御遷化」という言葉を使っている。
「御遷化」は信長の父信秀の場合にも使われているのだが、
手許の小さな漢和辞典によると、本来は「高僧の死」に使われるようである。
しかし、牛一は後に策彦周良の死でも単に「病死」で片づけてしまっている。
牛一は「御遷化」という言葉を使うことで、
評価のバランスを取っているのではないか。
つまり、信光の死は「天罰ではない」と暗示しているのだと推測する。 
そういう牛一が、ここだけ、信長の事実誤認を認めているのは不自然ではないか。

では、信長のいったことが真実とすれば、どうなるのだろう。
信長軍が目にしていたのは、鷲津・丸根の攻撃部隊だったことになる。
しかも、沓掛方面へ撤退している途中の姿を見ていたと解釈するほかない。
数千の兵の撤退である。兵の列は延々と続いたであろう。
佐々・千秋隊もそれを見たに違いない。
目の前、数百メートルのところを撤退していく今川軍がいる。
佐々・千秋はくわしい事情を知らない。
しかし、明らかに沓掛方面へ、つまり後方に進む部隊である。
進軍中の部隊と違って戦意も低下していて、それが見てとれる。
佐々・千秋隊は、その今川軍は撤退というよりは、退却中だと判断したのであろう。
退却中の敵ほど討ち取りやすいものはない。
突撃したくてうずうずしているところへ、信長が善照寺砦に入ったのが見えた。
「信長様もこの様子を見ていれば、抜け駆けでもお許し下さるだろう」と思って、
突撃を開始する。
実をいうと、信長の戦術戦思想に「陽動作戦」というものはない。
野戦においては、常に敵の正面からぶつかっていくのである。
城攻めの場合は、一番遠い城から攻めるという戦略パターンはある。
それによって、途中の城の活力を奪い、相手の士気の低下を図るのである。
上洛の際の六角氏に対したときがそうだったし、
その後の伊勢攻めにおいても、同様の作戦をとっている。
しかし、野戦においてはそういうパターンは見られない。
そういう観点から、佐々・千秋の突進も信長の命令による陽動ではない、
つまり抜け駆けであるとするなら、
このような状況下だったのではないかと想像されるのである。
ところが、中島砦に相対する丘の斜面には、前軍が配置されていた。
佐々・千秋隊はその反撃に会って、敗れてしまうのである。
あるいは、佐々・千秋隊に対したのは、撤退の殿部隊であったかもしれない。
殿は撤退を援護する役割をもつ。
だから、敵を見ればすぐ戦うことを決意したであろう。
また、戦意も高く、精強の部隊であったに違いない。
佐々・千秋隊は、案に相違した反撃を受け、敗れて退却した。
では、桶狭間山にいた義元はどうだったのか。
配下の部隊が撤退するのだから、当然、義元も撤退を行おうとしていたはずである。
そうであるなら、最初の二つの疑問も氷解する。
同時に、全く新しい「桶狭間の戦い」の姿が見えてくるのである。
大高城への兵糧入れは、本格攻勢の開始を意味するものではなく、
二日間で終わる予定の臨時の作戦だったのだ。
(だから、中島砦は取る必要がなく、単なる備えの配置ですませたのである)
信長は進軍途中の今川軍を攻撃したのではなく、撤退中の今川軍を攻撃したのである。
その推理を裏づける資料があるかどうか。
調べてみると、『三河物語』では十八日に大高城にいたと思わせる記述がある。
以下は、『三河物語』の口語訳である。

義元は、池鯉鮒からだんだんと前進し、大高に行った。
十九日、某山の上にある砦をしっかりと巡見し、諸将を集めてやや長い軍議を行った。
その結果、
「さらば攻め取ることにしよう。
それならば、元康(家康)が寄せ手を務めよ」といった。
元康が丸根砦に攻めかかると、
佐久間大学は、このままでは砦は破られると思い打って出た。
佐久間の運は尽きていなかったようで討ちもらしたが、
家の子郎党はことごとく討ち取った。
このとき、松平善四郎、筧又蔵その他の衆も討ち死にした。
その後、大高城に多くの兵糧を入れた。

十九日早朝に始まる丸根砦攻撃の前に、義元は織田軍の砦を巡見し、
軍議を開いたというのだから、
十八日のうちに大高城に入っていたと考えるのが自然であろう。
『三河物語』は家康の家臣であった大久保彦左衛門忠教の著書で、
徳川家と大久保家にまつわる歴史などが記された歴史書、兼家訓書である。
家康びいきのところが多くみられ、全てを信じることはできないとされる。
しかし、この記述では、特に家康びいきがあるわけではない。
逆に、『信長公記』ほかの資料には、
義元が十八日に大高城にいなかったとは書いていない。
つまり、『三河物語』を否定する資料はないのである。
なぜ、信長の研究本が『三河物語』を無視するのか、その理由がわからない。
義元が十八日には大高城にいたという前提に立つならば、
義元の侵攻目的、動員兵力は再検討する必要があるだろう。

鈴木銀


〔太原雪斎と今川義元〕

今川義元は永正十六年(一五三六)氏親の五男として生まれた。
幼いときに出家し、はじめは駿河の善得寺、
のち、京都の建仁寺、および妙心寺で修行している。
いずれも臨済宗の寺院である。
太原雪斎は今川氏親から「三顧の礼」をもって迎えられ、義元の師範となった。
歳は義元より二十四歳上である。
有光友學氏の『今川義元』では、禅寺における二人について、こう述べている。

雪斎と義元は、駿河国にあっては、善得寺や善得院で仏道に仕えるとともに、
駿府を中心とする社交界で活動し、また、京都にあっては有数の僧や公卿、
文化人と交わり、幅広い人脈を築き、
さまざまな経験をして知識と素養を高めていたといえる。
このことを抜きにしてこれ以後の義元の生涯を語ることはできないであろう。

「禅寺に入る」即「仏道修行」と思いがちだが、サロン的な効用など、
いろいろな効用があったことを教えてくれる。
天文五年(一五三六)三月十七日、今川家の当主であった氏輝と、
その後継者と目されていた弟の彦五郎が同日に死亡するという事件が起きた。
死因や、なぜ同日なのかなどの謎は解明されていない。
これによって新たな家督争い(花蔵の乱)が起こる。
還俗した義元は雪斎の助けを借りて、この乱に勝ち、
六月十日に今川家の当主となった。
以後、雪斎は義元の主席補佐官として幅広い活動を行うことになる。
雪斎が助言したのは国内の治世分野だけではなかった。
武田、北条氏に対しては、外交官として交渉に当たり、織田氏に対しては、
総大将として何度も出陣していた。
天文十六年(一五四七)八月、
岡崎城主松平広忠は織田信秀の侵攻に対する支援を仰ぐため、
嫡男の竹千代(家康)を人質として今川に送ることにした。
ところが、その途中で、田原城の戸田康光によって奪われ、
家康は織田方に送られてしまった。
家康は熱田社大宮司加藤順盛に預けられたが、
それを聞いた信長は家康に会いに行っている。
信長十四歳、家康六歳のときであった。
このときの二人の会見の模様を伝える資料はない。
六歳の少年家康の中に信長は何を見たかはわからない。
しかし、家康の方は、八歳年長の信長から強烈な印象を受けたことであろう。
後年、この二人は同盟を結ぶことになる。
その同盟は家康にとっては苛酷なものであった。
しかし、家康は同盟を破ることはなく、信長の死まで忠誠を尽くしたのである。
その後、雪斎は総大将として今川勢を率い、
田原城を攻撃して、これを落としている。
翌年三月、織田信秀の侵攻に対し、
雪斎は今川勢を指揮して岡崎城の手前の小豆坂で戦い、勝利を収める。
この間、義元はというと、
駿府において兄氏輝の十三回忌の法要を執り行っていたのである。
今川家では、武将と僧の立場が逆になっていたといえるだろう。
天文十八年三月、岡崎城主松平広忠が家臣に刺殺されるという事件が起こる。
今川方はすぐさま雪斎が率いる軍勢を岡崎城に入れ、接収した。
さらに、雪斎は信秀の長男信広が守る安祥城を目標に定め、
付近の城への攻撃をしきりに行う。
そして、十一月、ついに安祥城を攻略し、信広を捕虜とした。
このとき、今川軍は信広がいる本丸を攻撃せず、
三の丸、二の丸を落としたところで、降伏勧告を行っている。
その二日後、信広と竹千代との捕虜交換が行われた。
雪斎の計画通りに事が運んだわけである。
翌年、雪斎は上京し、臨済宗最高位の妙心寺住持となり、
後奈良天皇から紫衣を賜った。
上京はそれだけが目的ではなく、今川の三河領国化について、
朝廷、幕府に了解取り付けの運動も同時に行ったのであろう。
雪斎は文化面においても活躍し、
「今川版」と呼ばれる書籍の刊行にも深く関与した。
このようにスーパースターともいうべき禅僧だったが、
その人となりは分からない。
雪斎は弘治元年(一五五五)十月十日、葉梨(藤枝市)の長慶寺で死没した。
享年六十。
年齢からみて病没だと思われるが、
そのことにふれている資料はわたしの手元にはない。
桶狭間の戦いの五年前のことであった。

鈴木銀


〔今川義元の桶狭間〕

信長は、国内の反勢力の制圧が進むにつれ、
西三河に対して積極攻勢の姿勢をとっている。
織田・今川の戦いは尾張・三河の国境付近で間断なく続いていたが、
村木砦の戦い以後、攻勢に出ているのはほぼ織田方であったといっていい。
つまり、今川方の田畑は常に織田方の焼き働きの脅威にさらされていたのである。
これは領主である今川義元の権威の失墜にほかならない。
さらに、信長は尾張領の奥深くまで進出した鳴海城、
大高城に対しては付け城を築いて、その活動を制限した。
特に大高城に対しては鷲津・丸根のほか氷上・向山・正光寺という三つの砦を築き、
補給路を断った。
地図を調べると、鷲津・丸根だけでは海上からの補給を妨害するには不十分に思える。
補給路の遮断のためには、それらの砦は必要であったに違いない。
これに対し、義元はどういう作戦を取ろうとしたのか。

今川義元は「海道一の弓取り」と謳われていたが、
それは太原雪斎がそばにいてのことであった。
家臣たちもみなそう思っていた。
ただ、義元自身はそれを認めていなかったであろう。
雪斎とともに戦陣にいたとき、雪斎の進言は全て自分の考えと同じであると、
義元は思ったに相違ない。
義元の兵学は雪斎から学んだものだ。
だから、雪斎の助言は全て思い当たることばかりである。
思い当たるのと、考え出すのとでは実は雲泥の開きがあるのだが、
しかし、義元はそれに気づいていない。
それは、国主はあくまでも自分であるという自負から生まれたものであろう。
雪斎も、義元に対し、立てるべきところは立てていたと思われる節があるので、
国主としての自負は損なわれることはなかった。
「雪斎がいてもいなくても同じことだ。
信長との戦いで、それを家臣どもによく分からせてやる」
出陣の儀式を行いながら、義元はそう決意したであろう。
そのために、長男の氏真に駿河・遠江の統治を委ねるなどの準備も重ねた。
その準備期間は、西三河は支配しているとはいえ、信長に押され気味であった。
当然、義元の狙いは国境付近での反転攻勢であったろう。
ただし、義元には信長と決戦する気はない。
義元だけでなく、当時の戦国大名は「決戦によって相手の主力を殲滅する」という
作戦思想をまだ手に入れてなかった。
たぶん、味方の兵力の損耗を恐れるあまり、
敵撃滅にまで心が至らなかったのであろう。
同様の傾向はナポレオン以前のヨーロッパにも見られる。
当時の訓練された常備兵は君主にとっては貴重品であった。
だから、戦いにおいては、できるだけ兵士の損耗を避けた。
将軍たちの作戦の主眼は、地形を利用していかに有利な陣形を布くかに置かれ、
不利な陣形を強いられた側は、決定的な局面を迎える前にさっさと退却した。
だから、兵士の損耗率は非常に低く、
両軍合わせて戦死者一名という戦いもあったほどである。
義元が考えていたのも西三河において主導権を奪い、失地を回復した上で、
織田領に侵攻し、一城を抜き、一城を調略するという漸進作戦であったに違いない。
駿河・遠江の統治を嫡男に任せたということも、
義元が三河に腰を据えて戦う気であったことの表れであろう。
そのような局地的な長期作戦を考えていたと仮定するなら、
通説による二万五千という大量動員はどう考えても不自然である。
今川の最大動員兵力は三万程度である。
せいぜい、一万二、三千といったところだろう。
試しに、通説の二万五千という兵力が沓掛~大高にいたという状態を
想定してみるとよい。
当時、沓掛は安全な後方基地ではなく、最前線に近いものだった。
そこで、沓掛に四千。
鷲津・丸根攻撃隊に大盤振舞いで五千、義元の本陣に五千、
後、一万一千をマップ上に合理的に配置してみればよくわかる。
桶狭間~沓掛は千もあれば充分。後、一万が桶狭間近辺ということになる。
それで、信長の強襲が成功したかどうか。

義元が沓掛に到着したとき、
(あるいはもっと前かもしれないが)大高城から兵糧不足の訴えが届く。
見殺しにするわけにはいかない。
そこで、沓掛で予定外の作戦を決定する。
それが大高城の兵糧入れである。
このとき、義元の取りうる最上の作戦は東海道や、
大高道よりも北の鎌倉街道に大軍を展開させ、善照寺砦から、
丹下砦を攻略することであったろう。
それが成功すれば、大高城に対する織田方の付け城は逆に包囲され、
放棄せざるを得なかったに違いない。
兵糧不足の訴えなどは、二日や三日は我慢させればよかったのである。
しかし、義元は、兵糧不足には兵糧を入れるしかないという、
単純な作戦しか思いつかなかった。
義元は治世においては法治主義を貫こうとし、
法制度も常識に合わせて細かい規定を加えていった。
その姿勢はそれなりに評価されるべきである。
しかし、根本的な改革というものは全く見ることはできない。
どうやら飛躍した発想というものは、
義元の思考パターンには入っていなかったようである。
義元が兵糧入れに投入した兵力は五千。
それに兵糧を船で運んできた服部水軍がプラスされる。
今川方は前にも大高義元に兵糧を入れたことがある。
そのときはもっと少ない兵力しか投入しなかった。
だから、五千という兵力は充分すぎる数であり、
何の危険もないと、義元は判断した。
織田軍は方々の城砦に兵力を分散しており、
大軍をもって反撃する能力はないと見ていたからである。
その判断に誤りでなかった。
そこで、義元は大将である自分が本陣五千とともにいっしょに出陣することにした。
義元にとっては、初めての実戦指揮である。
そこで見事な成功を収めて、
将としての実力を家臣に示してやろうというつもりだったと推測する。
たった二日の作戦である。
成功すれば、神速の作戦であり、見事な采配であったと世に喧伝されるであろう。

前日(十七日)、千人程度の先遣隊が出発し、
進撃路の安全を確認し、途中の休憩所などを設営する。
一日目早朝、兵糧入れの部隊と義元の本隊約九千人が沓掛を発ち、大高城に入る。
二日目払暁、鷲津・丸根砦を攻撃。その後、順次撤退を行う。
義元の本隊五千人は途中の桶狭間山に布陣し、
他の部隊の撤退を見届けてから最後に撤退する。

作戦は計画通りに進んでいた。
十八日、今川の大軍が進んでくるのを見て、
氷上・向山・正光寺の三砦の守兵は撤退する。
『信長公記』に記載がないのは戦闘が行われなかったからではないか。
これは想像だが、撤退は信長の命令によらないものであり、
その兵の一部が中島砦、またはその付近に撤退したのではないか。
それが佐々・千秋の三百人である。
それならば、六分の一の戦死者の中に指揮官が二人とも含まれていたのも納得できる。
壮烈な討ち死にということで、武門の名誉とその家を守ったのである。
二日目の両砦の攻略も、義元の督戦のもとで簡単に成功した。
ただ、『三河物語』では、
その後に大高城の城番についての軍義が長引きいたという記述がある。
結局は、それまでの城番に代わって家康が大高城に入ることになるのだが、
そのために信長に反撃態勢を整える時間を与えてしまったというのだ。
それでも、義元の目から見れば、作戦に齟齬はなかった。
予定通り桶狭間山に着き、そこに陣を構える。
部隊の撤退も支障なく進んでいた。
正午ごろ、敵の中島砦に対応するため、前軍を北西に向かって配置する。
義元の軍事常識では、
高地に布陣した敵に向かって小勢で攻撃してくる馬鹿者はいないはずだった。
そこで、作戦成功を自ら祝って謡いを謡うのである。
そんなところへ佐々・千秋の三百人が突撃してくるが、
前軍によって一蹴されてしまう。
義元にとっては、「どうだ。見たことか」といったところだろう。
「わが矛先には天魔鬼神も耐えられまい」と自慢し、さらに謡いを謡う。
このとき義元は、織田の反撃も撃退したことだし、
これで作戦は終了したと思ったことだろう。
まさか同じ場所から再度の反撃があろうとは、
それも「隣にいてほしくない、凄まじい男」がやってくるとは、
夢にも思わなかったに違いない。
そこで、撤退を急がず、悠々と首実検などをしていたのである。
歴史に「たら・れば」はないのだが、
義元が作戦終了と思った時点で直ちに撤退を開始すれば、
おそらく、日本の歴史は変わっていたであろう。
信長の軍が中島砦から繰り出してきたのを見て、義元はどう思っただろうか。
ここで、実戦指揮の経験のなさが表れた。
義元がすべきだったのは、直ちに全軍による迎撃の命令である。
まだ人数的には敵に倍する兵力があり、
高所という地の利もある。
主将が断固として戦う意志を示せば、活路が開けた可能性はあった。
あるいは、そうしておいて、自分は馬廻りだけを連れて逃げてもよかった。
そうすれば、命だけは助かったであろう。
しかし、それでは武将としての名に傷がつく。
さりとて戦う決心もつかない。
負けるとは思わないが、絶対に勝つという自信もない。
軍議が長引いたことからすると、義元は即断の武将ではない。
反撃するか、撤退するか逡巡する。
そこへ突然の豪雨である。
「この雨では、織田もこれ以上攻めてきはすまい」と、思ったかもしれない。
雨は降り始めたときと同じように、突然と止む。
視界がもどったとき、目の前に現れたのは、朱の具足の信長親衛隊であった。
一斉射撃の轟音で、本陣の前衛はもろくも崩れ去る。
そこで、あわてて撤退を命じたが、すでに秩序ある撤退ではない。
何もかも打ち捨て、義元は本営千五百人に守られながら沓掛を目指して山を降りる。
しかし、すぐに信長の親衛隊に捕捉されてしまうのである。

鈴木銀


〔家康と信長〕

信長の親衛隊が義元の本陣に攻め込んだとき、家康は大高城にいた。

「この度の戦いで、家康は朱武者で先駆けし、
大高へ兵糧を運び入れ、鷲津・丸根では手を焼き、辛労だったので、
大高に陣をおいて人馬を休めていた。」

実は休息していたのではなく、大高城の新しい城番として入っていたのだが、
この記述で多少気になるのが、「朱武者」という言葉である。
「朱武者」は、信長の青年時代の記述にも出てくる。
信長の「うつけ」ぶりの描写の後で、
「悉く朱武者に仰せ付けられ」と書かれているのである。
つまり、「お付きの者の武具は全て朱色にさせて」いたのである。

義元の旗本との戦いのとき、
「然りと雖も、敵味方の武者、色は相まぎれず」という一文があるが、
それと二つの朱武者との間に何か関連があるかどうか。
深読みのしすぎと笑われそうだが、
『信長公記』は極端に言葉を節約しているので、どこに伏線があるのか、
どこに牛一の真意があるのか、深読み程度でちょうどいいと、わたしは思っている。
松平竹千代(家康)は、弘治元年(一五五五)三月、
十四歳で駿府の今川館において元服する。烏帽子親の役は今川義元が務めた。
その二年後の一月、家康は義元の姪築山殿と結婚し、今川の一門格となった。
この三年後が桶狭間の戦いとなるのだが、この間に家康に対し、
信長の働きかけはなかったのだろうか。
何の資料もないが、あったとわたしは推理する。
なぜなら、信長の行動パターンの一つに、
「役に立ちそうなことは何でも試してみる」というのがあるからだ。
家康とは前に一度会っており、そのとき相手をチャームしたという確信がある。
その相手に、謀略好きの信長が何もしなかったというのは、とても考えられない。
もっとも、その成果はゼロに等しかったであろう。
家康はまだ駿府にいて、一門格とはいえ人質状態が続いていたからである。
信長からのコンタクトが義元に知れたら、
それだけでも誅殺されかねない状況下にあった。
信長もコンタクトに当たっては、
秘密がもれないよう充分に気を遣っただろうと思われる。
ここで「家康は朱武者で先駆けし」という一節が浮かび上がる。
朱武者は、信長の親衛隊のいわば制服である。
なぜ、家康は朱武者となったのか。
朱武者となったのは家康だけなのか、
それとも家康直属の三河兵も全員そうしたのか、
それが明らかになる資料は残念ながらない。
しかし、家康の朱武者には、
信長に対する何らかの意思表示であったのではないかと、わたしは想像する。
義元の旗本との乱戦の中、「敵味方は色で識別できた」という一文がある。
太田牛一は『信長公記』を軍記読みのように読み聞かせたこともあるという。
そのためもあるのだろう、文章には非常にリズム感がある。
(わたしが口語の逐語訳を採用しなかったのは、
それだと原文のリズム感が全く失われてしまうからでもあった)
特に、桶狭間のこのくだりは山場であり、歯切れがいい。
ところが、「然りと雖も、敵味方の武者、色は相まぎれず」の一文は
その歯切れのよさを多少損なっている感じがする。
(全くの主観であるが)また、この文章がなければ、
この場の情景が分からないというわけでもない。
牛一が、ここに「色は相まぎれず」を入れたのはなぜか。
単に、後の信長・家康の同盟を暗示しているだけなのか。
それとも、何か伝えたいことがあったのか。
小説なら、十九日の払暁に家康からの密報が信長のもとに届き、
今川軍の作戦意図を報せたとでもするのだが、
さすがにそれは「想像」のしすぎであろうか。

家康が義元敗死の第一報を受けたのは十九日日没ごろであった。
当日の日没は七時半近くだから、
通説による部隊配置だったら信じられないほど遅い報せである。
しかし、義元撤退説なら、大高城と桶狭間の間には部隊としての今川軍はいないので、
報せが遅れても納得できる。
織田方に属する叔父の水野元信から早々に退去するように勧めがあった。
しかし、家康は確報が来るまでは動かなかった。
翌日、岡崎に移動。五月二十三日、今川勢が撤退するのを待って、
居城である岡崎城に帰還する。このとき、家康は「捨て城なら、拾っておこう」と、
いったという。
翌年四月上旬、信長は家康支配下の城に兵を送るが、
この戦いはまるで「出来レース」のような感じである。

「信長は三河梅ヶ坪(豊田市)の城に兵を派遣した。
敵を追い詰め、麦苗をなぎ払ったが、敵からも屈強の射手が出て厳しく守ったので、
足軽合戦となり、前野長兵衛が討ち死にした。
この戦いで、平井久右衛門がすばらしい弓を射たので、
城中からもこれを賞賛し、矢を送ってよこした。
信長も感嘆し、豹の皮の大うつぼ(矢を差して背に負う容器)と、
葦毛の馬を下賜した。」

この春、家康は信長とよしみを通じたという資料があるので、
このときには既に、家康は同盟を決意していたのだろう。
両軍から戦意というものがまるで伝わってこない戦いであった。
翌永禄五年(一五六二)一月十五日、家康は清洲城の信長を訪れ、
「清洲同盟(織徳同盟とも、尾三同盟とも呼ばれる)」が正式に成立する。
信長は、この同盟によって作戦対象を美濃に絞ることができたのである。
この翌年、信長の娘徳姫(五徳)と、家康の嫡男信康との婚約が調う。
実際に二人の結婚は四年後である。そのとき、二人とも九歳であった。
後年、信康が信長の命令によって自害させられることになるとは、
だれも予想だにしなかったに相違ない。

鈴木銀


『信長』は、前半の山場が終わったところ。
分量的にも、ほぼ半分というところ。

書きなおしが終わり次第、再度プレゼンする予定です。
あんまり最後まで日記に公開するのもどうかと思われるので、
そろそろ終わりにしようかと・・・。
もっと読みたいという希望が多ければ、考え直しますが・・・。

鈴木銀


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