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[参考] 信長 第4章 【信長は嫡男ではなかった】 鈴木銀一郎

鈴木銀一郎先生が、BBS「金羊亭」で、
織田信長の研究に関する記事を掲載していますので、ご案内します。


信長 第4章 信長は嫡男ではなかった (2009年8月24日)

〔信長のTPO〕

信長の着るものの好みを見ると、派手好き、
目立ちたがりであることは異論がないであろう。
ただ、単なる目立ちたがりではない。
その場その場の状況を考え、
自分の服装が与える効果をきちんと計算しているのである。
その最もよい例が、有名な舅斉藤道三との対面の場である。
父信秀の死から二年後の天文二十二年(一五五三)四月、
斉藤道三から富田の正徳寺(一宮市)で信長と対面したいという申し入れがあった。

この年の閏一月、道三の娘の輿入れに尽力した平手政秀が所領である志賀村
(名古屋市)の屋敷で突然自殺するという事件が起こる。
政秀は、織田家第二の重臣で、勘定方を務めていた。
信長の幼いときからの傅役で、
斉藤道三の娘との婚儀も政秀がお膳立てをしたとされる。
『信長公記』は次のように記している。

「平手政秀は信長の性質の真面目でないことを悔やみ、
『これまで守り立ててきたのに、これでは生きていても仕方がない』として、
腹を切って死んでしまった」

昔はこれを「諫死」として政秀の忠義を褒め称えていたが、
今はそうとる人はほとんどいない。時期は不明だが、
この前に政秀の長男と信長が不和になった話があるからである。

「平手政秀の長男五郎右衛門はすぐれた駿馬をもっていた。
信長がそれを所望したところ、憎々しげないい方で
『わたしは武者でございますので、
よい馬を手放すことはできません。お許しください』
と断った。
信長はこれを根にもち、たびたび思い出しては不愉快な思いにさせられた。
こうして主従の間はしだいに不和になっていった」

現在は、この不和が政秀自害の遠因になっているという説が多い。
主君と不和になったことで、政秀は平手家の存続を危ぶみ、
自分が死んでわびを入れたというのである。
わたしも大体同じように考えてはいる。
だが、この自殺には、信長がもっと積極的にからんでいたと想像する。
政秀が息子について謝罪したとき、信長は恫喝し、
自殺に追いやったと思っているのである。
平手政秀は織田家の勘定奉行をつとめていたが、
信長はその職を政秀からどうしても取り上げたかった。
その理由は平手家の財力である。
天文二年(一五三三)、京都の公卿飛鳥井雅綱と、山科言継は、
朝廷から和歌と蹴鞠の指導を名目に尾張下向の許可を得て、
七月八日に信秀の居城勝幡城に到着した。
それから約四十日間尾張に滞在して、信秀や家臣たちに歓待され、
指導料もたっぷりと稼いでいった。その間に平手政秀の屋敷も訪れるが、
言継はその数寄をこらした豪華な造作に驚き、日記に残しているのである。
家老の身でそのような豪華な建築が行えたのは、
政秀が勘定奉行であったからこそ可能なことであった。
これは政秀が不正蓄財を行っていたという意味ではない。
当時の勘定奉行は請負制が普通で、その場合は主君に契約した額を納入すれば、
残りは自由にしてよかったのである。
当時の織田家は、伊勢湾水運の要である津島と熱田の二つの港を支配していた。
この二つの港から得られる税収は莫大なものであった。
天文十年(一五四一)、信秀は外宮仮殿造営費用として四千貫を朝廷に献上した。
さらに翌年、築地修理費として四千貫を朝廷に献上した。
この四千貫がどのくらいの価値があったか、
現代に換算するのは米の相対的な価格が違うのでむずかしい。
わたしは戦国シミュレーションゲームをデザインしたとき、
「十万石とは何か」というモデルをつくってみた。
つまり、ある大名が十万石という領地を支配していたとすると、
その人口、租税収入、兵士の動員力などはどのくらいになるのか、
式で導かれるようにしたのである。
その式に当てはめると、
四千貫とは二万五千石の領地の一年間の租税収入にほぼ等しいことになる。
(これはあくまでもモデルであり、実際はそのときの貨幣価値によって変動する)
そのように裕福だった織田家だから、
政秀は京都の公家が驚く数寄をこらした豪邸を建築できたのである。

信長は、やがて来る今川勢との対決のために、
強力な軍事力をつくらねばならなかった。
信長の直属部隊は全て常備兵である。
当時の武士は原則として農民兵であった。
平時は農村の自分の家に住み、農業に従事している。
武器をとり、兵士となるのは、主君から動員がかかったときだけであった。
だから、合戦をしかけるのは農閑期に限られていた。
それに対し、信長の直属兵は城内か城の近くに住み、生活費が支給される。
また、武器も農民兵は自前であるのに、常備兵は支給しなければならない。
農民兵に比べると、常備兵は金がやたらとかかるのである。
その代わりのメリットとして、常備兵は戦闘訓練を積むことができたし、
農繁期にも合戦を挑むことができた。
信長は、また、新兵器の鉄砲を大量に配備しようとしていた。
金はいくらあっても足りなかったろう。
そんなときに、家臣があり余る財力をもち、
豪華な邸宅を構えているのは我慢できないことだったに違いない。
後の信長なら、命令によってさっさと勘定奉行の職を取り上げることもできた。
しかし、天文二十二年(一五五三)の時点では、林兄弟も健在であり、
まだそれだけの権力はなかった。
そこで、息子との不和にかこつけて恫喝し、政秀を死に追いやった。
そう想像するのである。
政秀の死後、さすがの信長も寝覚めがわるかったのだろう。
供養のために政秀寺という一寺を建立し、その住職に沢彦宗恩を招いている。
ただし、政秀の三人の息子たちが重用されたという記録はない。

斉藤道三は、いったい織田家の当主となった信長とはどんな男なのか、
それを自分の目で見極めようと思ったのであろう。
その上で、尾張に対する戦略方針を決めようとした。
もちろん、その選択肢の中には、尾張侵攻も含まれていたに違いない。
信長はためらうことなく、この申し出を受けた。

「斉藤道三の考えていたのは、
信長がふざけたかっこうをしているという評判なので、
びっくりさせ、嘲笑してやろうということだった。
そこで、古老の者七、八百に折り目正しい肩衣、袴など品のよい衣裳を着せ、
正徳寺の御堂の縁に並んで座らせ、信長がその前を通るように準備した。
そうしておいて、町外れの小屋に忍んで、やってくる信長の姿をのぞき見した。
この日の信長のいでたちは、髪は茶せん髷で、
もとどりを萌黄色の平打ちひもで巻き、湯帷子の袖を外し、
熨斗つきの太刀と脇差はどちらも長い柄をわら縄で巻き、太い麻縄を腕輪にし、
腰の周りには猿回しのように、火打ち袋や、ひょうたんを七つ、八つもつけ、
虎皮・豹皮で前後左右のだんだら仕立ての半袴を着ていた。」

普段の町中でのくだけたかっこうそのままといえるが、
ちゃんと舅殿に敬意を表して(?)、より高価なものを身につけている。
太刀は、普段は朱鞘だが、この日は金銀を張りつけたものだ。
はかまは虎皮と豹皮という輸入素材を用い、
しかも前後左右どこから見てもその両方が見えるという凝った仕立てにした。
そのファッションセンスは現代にも通じるといえるだろう。
全体としてはバサラ調だが、湯帷子の袖を外して着たり、麻縄を腕輪にしたりと、
荒々しさも演出している。
道三ほどの男なら、
「この男はばかなんかではない」とひと目で見抜いたのではないか。

「この日の行列はというと、まず屈強な足軽が先駆け、先触れをし、
その後ろに七、八百人が整然と隊伍を組み、
中央に信長、最後に三間半の朱塗りの長鑓衆が五百人、弓・鉄砲衆の五百人が続いた」

当時の鑓は二間(三・六四メートル)か、二間半(四・五五メートル)であった。
それを信長は三間半(六・三七メートル)にし、親衛隊に持たせたのである。
その長さの差とはどんなものだったのか。
当時の合戦は、まず百メートルほど隔てた弓戦から始まる。
次に、頃合いを見て槍足軽が鑓を揃えて突撃し、鑓対鑓の戦いになる。
双方の鑓の長さが同じなら、相手を突ける距離に入れば、
当然、自分も突かれる距離にいるということである。
そこで、最後の数歩を踏み出すときには、相当の逡巡があるはずだ。
双方の勢いに懸絶したものがない限り、
実際に槍戦が始まるまでは、
数メートルを隔てた対峙が続くというのが常態であったろう。
そこを、だれかが決意して最初に敵陣に向けて突進する。
それにつられて他の者も走り出して白兵戦となるのである。
このとき最初に突進した者が、功名第一に挙げられる「一番槍」である。
しかし、長さに二メートル近い差があれば、敵を射程距離に置いても、
自分はまだ射程外にいる。全員が「一番槍」となる可能性があるのである。
ただし、武芸の心得のある友人に聞いたら、
「そんなの簡単に払えますよ」ということだった。
長い槍で突いてきても、それを払って逆に相手の懐に入ってしまうというのである。
信長も当然それを知っていた。
その上で、親衛隊を短い槍と長い槍とに分け、
実戦演習を繰り返して対応策を見つけ出していたのである。
それは、突くのではなく、上から叩き下ろし、下から撥ね上げるというものだった。
これなら、突く場合より払われる可能性は低くなるのではないかと思われる。
さらに、突いた場合には、必ず「引く」という動作が必要になる。
それでないと、次の「突き」に入れない。
しかし、叩き下ろした場合は、
それが次の「撥ね上げ」の動作の準備完了となるのである。
防具というのは、だいたい下からの「撥ね上げ」には弱いものである。
鑓の穂先がうまく相手の足の間に入れば、
日本の具足の弱点である股間にダメージを与えることになろう。信長のことだ。
「いいか、金玉を狙え、金玉を」
くらいのことをいって、兵士たちをどっとこさせたに違いない。
武術に詳しい友人は、半数が鑓を突き出し、半数が叩くという戦法を提案してきた。
いずれにせよ、信長は演習によって最適の戦闘ドクトリンを決定していたのだろう。
 それにプラス常備兵の強みが加わる。
長鑓隊の第一線には三間半の鑓でも楽に操れる力のある者を選び、
それを実戦さながらの訓練で鍛え上げていった。
その戦闘ドクトリンまで含めて考えれば、
「三間間中柄」の鑓は正に新兵器そのものであったといえよう。
ときどき、どうしてほかの国は真似しなかったのかという疑問を目にすることがある。
それは、ハードは簡単に作れても、ソフトが真似できなかったからである。
三間半の鑓は、訓練を受けていない農民兵にはとても扱える代物ではなかったのだ。
さらに、信長の親衛隊の強さの理由をもう一つ付け加えておこう。
前述した「村木砦の攻撃」の戦闘後について、『信長公記』はこう記述する。

「信長の小姓衆も多数の死傷者が出て、目も当てられぬ有様だった。
朝の八時過ぎから、夕方の五時近くまで攻め続け、目的は果たすことができた。
信長は本陣で報告を聞き、あいつも死んだか、こいつもそうかといって涙を流した」

大名クラスの武将が、足軽たちの名を知っていることはまずなかったろう。
信長は親衛隊のメンバーの名を知っており、戦死者のために涙を流したのである。
その姿を見て、「この殿様のためなら」と、だれしも思ったことであろう。

さて、行列の最後は、弓・鉄砲で五百が続く。
ひとまとめにしてあるので、鉄砲の数は大したものではなかったと推察する。
主力はまだ弓の時代である。
せいぜい五十丁、多くても百丁というところだろう。
ただし、たとえ五十丁であっても、
それは美濃衆にとっては驚くべき数だったに違いない。

「正徳寺に着くと、信長は控えの間に屏風を立て巡らし、その中に入る。
そこで生まれて初めて髪を折り曲げに結い、
だれも知らないうちに染めておいた褐色の長袴をつけ、
これもいつ用意しておいたのか、儀礼用の短い刀を帯びた。
屏風から現れた姿を見て、道三の家中は
『さては先ほどのたわけぶりはわざとしていたのか』と驚き、
やっと事情を理解した」

たとえ正装するにせよ、最初に噂通りの「うつけ」姿を見せておけば、
その効果は比べものにならないほど絶大なものになる。
信長の計算の確かさと、したたかさがうかがえるではないか。

鈴木銀


〔信長と道三〕

道三との会見の場である。

「信長は会見が行われる御堂にするすると進む。
縁側に上がったところで、道三の家老の堀田道空が迎え、
『お早くお座敷にお出でくださいませ』
といった。
信長は、居並ぶ道三の家中に目もくれず、前をするすると通り、縁の柱に寄りかかる。
しばらくあって、道三が奥の屏風を押しのけて姿を現した。
それでも、信長は知らん顔のままである。
たまりかねた堀田道空が進み寄り、
『そこにおられるのが山城殿でございます』という。
『であるか』
と、信長はいい、縁から中に入って道三にあいさつし、座敷に座った。」

ここに見える信長の行動は、
全て、自分と道三はあくまでも対等であるという主張である。
だから、道三の家中には見向きもしないし、
道三が姿を見せなければ座敷にも入らない。
道三が現れ、正式の紹介があって初めて、その前に進むのである。
現代の日本人には想像できないほどの強烈な自負心ではないか。
 その後、信長は湯漬けの接待をうけ、
道三と杯を交わして、対面の儀は滞りなく終わった。

「道三は苦虫を噛み潰したような顔で、『いずれまた会うことにしよう』といって、
立ち上がった。
帰り道、二人は二十町ほどいっしょに馬を進ませた」

原文は「廿町許り、御見送り候」とだけある。
どちらが見送ったという主語はない。
「帰り道、二十町ほどいっしょに馬を進めた」というのはわたしの意訳である。
二十町というのは約二・二キロメートルである。
どちらかが立ち止まって「相手を見送った」と解釈するには長過ぎないだろうか。
道三が見送ったわけはないし、信長は対等を主張しているのだから、
もっとあり得ない。
対面の席は酒宴ではなかった。杯を交わしただけであったろう。
たぶん、堀田道空が杯のやり取りの仲立ちを務めたと思われる。
二人の間には距離がある。
そんな場で発せられたのはだれに聞かれてもよい儀礼的な言葉だけだったに違いない。
しかし、道三には質問したいことがあったはずだ。
鉄砲と、三間半の鑓についてである。
信長はあくまでも対等ということを念頭においているから、
正雲寺を去るときも、道三と同時と決めていたであろう。
たぶん、門のところで道三を待っていたのではないか。
それを見て、道三の方から、そこまでいっしょに行こうと信長を誘った。
わたしが意訳したのは、そのように推理したからである。
並んで馬を歩かせれば、家臣に聞かせたくない話もできる。
二・二キロメートルというのは、鉄砲は実戦において効果があるのかどうか、
なぜ三間半の鑓に変えたのかを道三が問い、
信長が答えるのにちょうどよい距離ではないだろうか。
道三は、信長の言葉に中に、
これまでとは違う全く新しい合戦のありようを見て愕然としたであろう。
同時に、信長という男が内包する可能性のとてつもない大きさにも気づいた。
斉藤道三、(生年は不祥だが)もう若くはないことを自覚している。
自分の残された命ではとても実現できないほど、信長の可能性は大きく見えた。
横にいて、ともに馬を歩ませているのは婿である。
「いっそ、この婿殿に肩入れしてやるか」
ふっと、そんなことを思ったかもしれない。
「その可能性がどのように実現していくか。それを見守るのも一興かもしれん」
一方の信長は、ゲームふうにいえば、
自分が道三を「チャームした」ことを確信していた。
そういう確信が生じなければ、
道三の兵に国をそっくり預けるという発想は出てこなかったろう。    
二人が別れた後、道三はだまりこくったままだった。

「途中、あかなべというところで、猪子兵介が、
『どう見ても上総介様というのは「たわけ」でございましたな』といったところ、
道三はこう答えた。
『そうならば、無念なことよ。この道三の子たちは、
あの「たわけ」の門外に馬をつなぐ(家来になってしまう)ことになるのは
見え見えだからな』
これ以降、道三の前ではだれも『たわけ』という言葉を口にする者はいなくなった。」

斉藤道三は、この三年後、息子義龍と戦って敗死する。義龍軍一万七千五百に対し、
道三軍は二千七百に過ぎなかった。美濃の国人たちは、みな義龍のもとに参集した。
道三は国人たちの信頼を得るのに失敗したのである。
 このとき、信長は舅道三救援のために出陣する。
しかし、率いていた兵は二千程度であり、途中で道三戦死の報を聞くと、
小競り合いのみで兵を引いた。
信長は今川義元との戦いに備えている。
義龍軍と決戦し、兵力を損じるのは避けなければならなかったのである。

鈴木銀


〔父信秀の葬儀〕

信長の父信秀の葬儀は万松寺で行われ、尾張中の僧のほか、
諸国行脚の僧も加わり、三百人にも及んだ。
その葬儀の席に、信長は例のかっこうで現れるのである。
(ただし、遅れてきたという記述はない)

「信長が焼香の場に出る。
そのときの信長のいでたちは、柄の長い太刀・脇差を差し、
その柄をわら縄で巻いていた。髪は茶せん髷で、袴もつけていない。
仏前に出ると抹香をくわっとつかむと、仏前に投げかけ、帰ってしまった。」

信長はTPOについて深く考え、その効果を計算して臨む。
葬儀という厳粛な場に、なぜ普段のかっこうで現れたか、
それには信長の主張がこめられていたはずである。その主張とは何だったのか。
信秀には大勢の息子がいた。男子だけで十一人、娘も入れると二十四人である。

実は、一般にはあまり知られていないが、信長も子だくさんであった。
正妻との間には子がいなかったが、五人の側室が男女合わせて二十四人を産んでいる。
昼間の激務と心労とを、夜、女と過ごすことで癒していたのだろう。
ただし、信長が女色に溺れたという気配は感じられない。
あくまでも、仕事は仕事。
癒しは、癒しと割り切れる心をもっていたのである。

ところで、『信長公記』の信秀葬儀の場に登場する息子は、
信長と、その弟の折り目正しい信勝の二人だけである。
君主の葬儀で最も注目されるのは、だれが跡を継ぐのかという問題である。
信秀の葬儀の場でも、それは話題になっていた。信長か、信勝かである。
そこで、残りの息子の動向について、太田牛一は省略してしまったのだろうと思う。
信秀の長男は、庶子の信広であり、
本来なら、信広も話題の対象になってもおかしくないところである。
しかし、二年前の十一月に太原雪斎率いる今川勢に敗れ、降伏したことで、
後継者レースから脱落した。
この月、信長は熱田八か村に「藤原信長」と署名した制札を出している。
当然、信秀が許可したのであろう。
ところで、君主である父親から見れば、法で決められていない限り、
後継者の基準は母親ではなく、
だれが君主としての資質を備えているかという点であろう。
(君主が老齢で、若い側室にメロメロになっている場合は別だが)
信秀もその視点で信長を選び、三郎という名を与えていた。
もし信長が嫡男であったら、嫡出子の中で最年長であり、
亡き父の一種のお墨付きもあるのだから、後継者問題は起きなかったのではないか、
というのがわたしの推理である。
『信長公記』には、信秀の正室の土田御前を「信長の御袋様」と書いてある。
(ただし、信長誕生の記述では、母親にはふれていない)
それで、他の資料もそれに従ったにすぎないと、わたしは見ている。
では、牛一はなぜそんな嘘を書いたのだろうか。

鈴木銀


〔弟喜六郎の殺害事件〕

わたしが『信長公記』を初めて読んだとき、「あれっ」と思った記事がある。
それが、「勘十郎殿御舎弟喜六郎」の殺害である。
勘十郎とは信勝のことであり、喜六郎とは秀孝のことである。
起きたのは、弘治元年(一五五五)のことであった。

「六月二十六日、守山の城主織田信次(信長の叔父)が
龍泉寺城の下の松川の渡しで若侍たちと川狩りに興じていたところ、
信勝の弟秀孝がただ一人馬に乗ってやって来た。
信次が、『ばか者め、馬に乗ったまま城主の前を通るとは何たるつもりか』というと、
洲賀才蔵という者が弓を取り上げ、矢を射かけた。
たまたまその矢が当たってしまい、秀孝は落馬した。
信次たちが川から上がって見てみると、信長の弟の喜六郎秀孝ではないか。
年のころは十五、六、肌は白く、唇は赤く、優しげな感じで、
その美しさはたとえようがないほどであった。
そうとわかって、みんなあっと肝をつぶした。
信次は取るものも取りあえず、居城の守山にも帰らずに、馬に鞭をくれ、
どこともなく逃げ去ってしまった。
その後、何年かは浪々の暮らしで苦労をすることになった。
兄の信勝はこのことを聞くと、末盛の城から守山に駆けつけ、
町に火をかけてはだか城にしてしまった。
信長もただ一騎で清洲から三里の道を休みなしに駆けつけた。
守山の入り口の矢田川で馬の口を洗っていると、犬飼内蔵が来て、
信次は直ちにいずこともなく逃亡し、城にはだれもいないこと、
町はことごとく信勝によって放火されてしまったことを言上した。
信長は、『領主の弟という身分で、供も連れず、
下僕のようにただ一騎で駆け回るとは、
全く感心できない行為である。たとえ命を永らえていたとしても、
今後許すことはできない』といって、清洲に帰った。」

この二か月後に、「稲生の戦い」が起こる。
信勝はそのとき自ら出陣してはこなかった。
そんな男が、弟が殺されたといって相手の城下に乗り込み放火までしたのである。
それにひきかえ、信長の態度の冷たさはどうだろうか。
ひょっとして、秀孝は信長の腹違いの弟なのではないかと、わたしは疑った。
もしそうだとすると、信勝も腹違いとなり、
信長は土田御前の産んだ子ではない、つまり、嫡男ではないことになる。
そういえば、秀孝は原文では「勘十郎殿御舎弟喜六郎殿」である。
信勝のときは「御舎弟勘十郎殿」と書かれている。
なぜ、同じように「御舎弟喜六郎」と書かず、「勘十郎殿御舎弟」と書いたのか。
秀孝が異母弟であるということを、
太田牛一が無意識のうちについ漏らしてしまったのではないか。
「語るに落ちる」というやつである。コロンボのように老練な刑事なら、
決して見逃すはずはない。顔には出さないが、
心の中で「おやおや」とつぶやくところだろう。物証ではないが、心証とはなる。
実は、この話には後日談がある。
後に、信長は秀孝殺しの責任者の信次を守山城主に戻しているのである。
これでは、信長と、信次がグルになっていたとしか考えられないではないか。

鈴木銀


〔後継者気取りだった信勝〕

信長が嫡男ではなく、信秀の葬儀で後継者問題が話題になっていたと仮定すれば、
信長の行動の謎も解けてくる。
信長が嫡男であって、信秀が後継者として明言していたら、
信勝派には何の大義名分もない。
そうであっても、旧守派は体制破壊者である信長を廃そうとしただろう。
しかし、その場合は、事を起こすぎりぎりまで秘密を保つ必要がある。
秘密が漏れれば、信長に討伐の理由を与えるからである。
ところが、秘密保持に気を使った気配は全くない。
信勝擁立は噂となって流れ、信長の知るところとなっている。
謀反にしても、その出だしは信長の直轄地の横領である。
これは当主が行う行為であって、反乱側がとる行動ではない。
信勝派には反乱という意識がなかったのであろう。
嫡流という大義があったので、信長はうかつに手を出せまいとたかをくくっていた。
また、手を出してきても、戦力は自分たちが上だと安心していたに違いない。
信秀は、信長を後継者として扱ってはいたが、
それを重臣たちが居並ぶ前で公言はしていなかったと推察する。
臨終の場でも、だれを跡継ぎにするということはいわずに終わった。
あるいは、臨終に立ち会っていただれかが、わざといわせなかったか、
あるいは、信秀の意思を聞かなかったことにしたのではないか。
もっと想像をたくましくすれば、遺言をでっち上げた可能性まである。
臨終に必ず立ち会っただろう者とは、いっしょに暮らしていた正室の土田御前と、
その子信勝である。
さて、そのような状況下で、信長はどうTPOを考えただろうか。
葬儀にふさわしく折り目正しい身なりをしたところで、
嫡流という点では勝つことはできない。
とすれば、父親が後継者として扱ったことをアピールするしかないであろう。
それがいつもながらの、ふざけたいでたちなのである。
「信勝がいくら嫡流を主張しようが、親父が後継者として扱ってくれたのはこの俺だ。
いいか、俺はいつもこんなかっこうをしていた。
それでも、親父は俺を認めていた。俺がもっている力を理解してくれていたのだ。
それを忘れるな」
「抹香をくわっとつかんで投げつけた」行為は、
どう考えても弔意の表れとは考えられない。
怒り、または、宣戦布告の行為である。
わたしは、後継者問題のケリをつけられなかった父親への怒りであり、
信勝擁立派および、父親に象徴される旧体制に対する宣戦布告であったと解釈する。
ほとんどの信長本は、信長が父親を尊敬し、愛していたとしている。
しかし、本当にそうであったか、わたしは疑っている。
『信長公記』は信秀について、「取り分け器用の仁にて」
つまり、「特に優れた人物であった」と書いてある。
そこで、そんな優れた父親なら、
当然、子の信長も尊敬したであろうと短絡して結論を出しているのである。
しかし、信長がどう思ったかは、信長の視点に立って考えなければならない。
信長の視点、つまり、
信長が物心ついてからの信秀の戦いは負け戦の方が多いのである。
特に、晩年は負け戦ばかりといってよい。
敗戦の報せを聞いて、信長は、「何だ、親父はまた負けたのか」と思ったに違いない。
そして、「自分なら絶対に勝ってみせる」と、心の中で誓ったであろう。
勝つためには、父親とは違う戦い方をしなければならない。
信長は世間から爪はじきにされかねない乱暴者を集めて小さな親衛隊をつくり、
暇があれば演習を行った。その結果生み出されたのが「三間半の長鑓」であった。
また、鉄砲が手に入ってからは、その研究に励んだ。
信長は、父親でさえも見下していた。
そして、必ず父親を乗り超えてみせると決心していた。
信長の行動パターンからすれば、そう考えた方が自然である。
信秀は、確かに信長を愛していたようだ。
しかし、信長はまだ十九歳で子どももおらず、父親の真の愛を知るには若すぎた。

葬儀の場に話を戻そう。

「弟の勘十郎信勝は、きちんとした肩衣、袴を着け、礼にかなった作法だった。
人々は信長に対しては、いつものように「大うつけ」だと、口々に評判しあった。
その中で、筑紫の客僧ひとりだけが、
『ああでなければ、とても国持ち大名とはなれないだろうよ』
と、いったという。」

鈴木銀


〔信勝の謀殺〕

柴田勝家を怒りで退散させ、林美作守を自ら討ち取った稲生の戦い以後、
信勝派は末盛城と、那古野城に籠城したままとなった。
勝家が、信長様には勝てないと思い込んでいるのだから、
ほかの者に戦意があるはずはない。
信長はこの二城の間にしばしば手勢を出し、城近くまで焼き払わせた。
たまりかねて、勘十郎信勝の母土田御前がわびを入れる使者を信長のもとに送ってきた。
そこで、信長も許すことにした。

「信勝、勝家、林通勝らは、墨染めの衣を着て、母親同道で清洲へやって来た。」

信長は、かれらの表情を観察する。
勝家については、完全にチャームしたことを確信した。
事実、勝家はこの後、信長の最も忠実な家臣となる。
そして、信長の死後も、織田家を支えようとするのである。
信勝には、もともとどうしても信長に取って代わろうという
強烈な意志があったわけではない。
林兄弟に担がれ、踊らされていたにすぎない。
表情からも、本気で後悔し、罪を許されてほっとしているのが見てとれる。
しかし、信長は思う。
「こいつだけは許せん」
信長にとって、嫡流である弟というものは存在するだけで「悪」であった。
なぜなら、今川との本格的な戦いになれば、必ず、その調略の対象となるからである。
「その前に、いい折を見て始末しなければならぬ」
 林通勝は首謀者で、本来なら許すことはできないはずだった。

「先ごろ、信長が切腹させられそうになったとき、通勝は強く反対した。
そのいきさつを斟酌して、今回は許すことにした」

実際は違うと思う。林は何といっても筆頭家老である。
それを処刑してしまえば、旧体制派の動揺が大きすぎると考えたのではないだろうか。

翌年、信勝は再び謀反を試みる。
勝家がそれを注進すると、信長は仮病を使う。
勝家と、母親が見舞いに行った方がいいと勧めるので、信勝は清洲城にやってくる。
そこを家臣に命じて殺害した。
わたしは、この件に関する『信長公記』の記事はいっさい信用しない。
まず、信勝がやろうとしていたというのが、
前回と同じ信長の直轄地である篠木三郷の横領だと書いていることだ。
前にそれで痛い失敗をしているのに、その轍を再び踏もうというのである。
これでは、信勝と、その共謀者である織田伊勢守信安は全くの馬鹿者扱いである。
あるいは、牛一がわざとそう書いたとも考えられる。
『信長公記』を注意深く読めばその不自然さに気づき、
信勝が無罪であることが分かるようにしたのである。
牛一は、信長をかばいつつも、信勝に同情していた。
信勝を悪く書いてある記述が一つもないことが、それを裏づけているといえるだろう。
第二は、再度の謀反という重大な企みをもっていたら、
主君からの呼び出しには、まず疑ってかかるはずだ、という点である。
この場合、単純な呼び出しではなく、重病という扮装をまとっていた。
しかし、相手は謀略で知られる信長である。
もし、やましい心があるなら、必ず逡巡するであろう。
それが、信勝だけでなく、母親までも疑いをもたなかった。
つまり、やましい心はなかった。だから、信勝は全くの無実であったと推理する。
想像ではあるが、実際はこうであったろう。
この年、信長の側室吉野が長男奇妙丸(後の信忠)を出産する。
信長は喜び、生駒屋敷で踊り明かしたともいわれる。
それが心の引き金ともなったのか、信長は信勝殺害を決め、
病気と称して清洲城から出なくなる。
勝家が心配して見舞いにくると、信長はこういった。
「信勝に再び謀反の気配がある。今回は許すわけにはいかんので、
この城に呼んで処刑するつもりだ。
お前は、俺が親父殿と同じ病に臥せって、明日も知らぬ命であると伝えよ。
俺が家督について信勝と話したがっているともな」
勝家は何も質問せず、いわれたとおりにする。
土田御前は、勝家がチャームされてしまったことに気づかず、
息子のために戦ってくれた仲間だと思い込んでいる。
そこで、息子に清洲城に見舞いに行くよう勧めた。
信勝は、父信秀が見抜いていたように、やはり戦国大名の器ではなかった。
他人の言葉を信じすぎる。
そして、結局は若い命を捨てることになったのである。

ここまで議論を進めると、
太田牛一がなぜ信長を嫡流であると書いたかが納得できるのである。
牛一は、信長が無実の信勝を謀殺したとは書きたくなかったのだ。
信長が嫡男であれば、それに謀反を企んだ信勝には大義はなく、
非はむしろ信勝にある。
牛一はそういう設定を考えた。
そして、『信長公記』における信勝殺害を年代順には並べずに
桶狭間の戦いの後に入れ、さらに、
その少し後ろに斉藤道三の謀略を描いて信長の行為の印象を弱めたのだと推察する。

鈴木銀


〔謀殺の天才?〕

織田信長ファンにとっては認めたくないことかもしれないが、
謀略・謀殺もまた信長の真実の姿の一つである。
弘治元年(一五五五)の時点で、
信長の敵対勢力の拠点清洲城には守護代として織田彦五郎信友がいた。
坂井大膳はその下の小守護代であるが、実質的な清洲城主ともいえる。
坂井大膳の有力な家臣たちは信長との戦いで討ち死にして、
大膳一人では守りきれなくなっていた。
そこで、織田孫三郎信光に助力を頼もうとする。
信光に清洲城に入ってもらい、
信友・信光の二人が守護代になるという約束が成立して、
四月十九日、信光は清洲城の南櫓に入った。

「実は、これには裏があった。
信光は信長と交渉し、清洲城をだまし取って進上するから、
尾張下郡四郡のうち、二郡をもらいたいといと提案し、承諾を得ていたのである。
この孫三郎信光は信長の伯父に当たる人である。
翌日、信光は坂井大膳がやってきたら殺害しようと、軍兵を隠して待っていた。
大膳は途中までやって来たが、異様な気配を感じ、風をくらって逃げ出した。
そのまま駿河へと行き、今川義元を頼ってその地に留まることになる。
信光は守護代の織田信友のもとに押し寄せ、腹を切らせて清洲城を乗っ取った。」

約束通り、清洲城は信長のものとなり、信光には自分がいた那古野城を与えた。
信光がいた守山城には、信長の弟の信時が入った。
ところが、十一月には信光が家臣の坂井孫八郎に殺害されるという事件が起こる。
尾張四郡を分割するという約束は、立ち消えとなってしまい。
信長には、労せずして清洲城を手中にしたという結果だけが残った。
何という都合のよさ。さすがの歴史学者も、
裏に信長の関与があった可能性が高いと指摘している。

翌年七月、今度は守山城で弟の信時が、
やはり家臣の角田新五に殺されるという事件が起こる。
代わって守山城に戻ってきたのが秀孝殺害の織田信次というわけである。
角田新五は信長によって処罰された形跡はない。
坂井孫八郎もそうだという。
とそれば、やはり裏で信長の手がうごめいていたのだろうか。

ともあれ、これらの謀略と、戦いの結果、国内の反信長勢力は
岩倉城(岩倉市)を居城とする守護代織田伊勢守信安だけとなった。
永禄元年(一五五八)、岩倉城に内紛が起こった。
信安の長男信賢が父の信安を追い出してしまったのである。
信長はそれを機に、出陣に踏み切る。
信長の従兄弟の犬山城主織田信清も援軍を出し、岩倉城の北西浮野に陣を構えた。
信賢方も三千の兵を出し、戦いとなった。
結果は信長方の大勝で、千二百五十もの兵を討ち取ったという。
しかし、城の攻略まではできなかった。
 翌年の春、信長は再び兵を出す。今度は力攻めでなく、
二重、三重に鹿垣を巡らすという本格的な包囲戦である。
二、三か月に及ぶ包囲の間、信長軍は陣地から火矢や、鉄砲を城内に射ち込んだ。
城方はついに防戦をあきらめ、開城を申し入れた。
信長は岩倉城の取り壊しを命じて、清洲に帰還する。
こうして、家督を継いでから八年、信長はついに国内を統一した。
桶狭間の戦いの一年前のことであった。

この二つの岩倉攻めの間に、信長は突然思い立ったように上洛する。
一回目の岩倉攻めで、もう岩倉は脅威ではないと判断したのだろう。
八十人の供を連れたのみの、短期の上洛であった。 
 永禄二年(一五六九)二月二日、信長は将軍足利義輝の謁見を受ける。
 このとき、美濃から三十人ほどの刺客が京に送られてきた。
刺客は、幸いなことに、丹羽兵蔵という者の機転で見破ることができた。
信長はわざわざその宿泊先に出向き、名乗りを上げるという荒業で、
刺客たちの度肝を抜く。
これは、信長の危地に飛び込む行動パターンのひとつとして見れば面白いのだが、
問題は、上洛がなぜ美濃にもれていたのかということである。
スパイの働きなのか、それともだれか家臣の中で美濃と通じている者がいたのか。
もう一つ注目しておきたいことは、この上洛の途中で、堺に寄っていることである。
当時の堺には鉄砲鍛冶がいたし、火薬に必要な硝石の輸入港でもあった。
さらに、流行し始めた茶の湯の誕生の地でもあったのである。
信長が堺でだれと会ったのか、それがわかるといいのだが、
残念ながら資料は見つからなかった。
たぶん、信長は鉄砲と茶の湯と、その双方に興味があったのではないだろうか。

鈴木銀


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