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[参考] 信長 第2章【危地に飛び込む行動パターン】 鈴木銀一郎

鈴木銀一郎先生が、BBS「金羊亭」で、
織田信長の研究に関する記事を掲載していますので、ご案内します。


信長 第2章 危地に飛び込む行動パターン (2009年8月21日)

〔マムシの道三に国を預ける〕

信長には、自分から危険の中に飛び込む、
あるいは、危険を招きよせるといった行動がいくつもあるのに驚かされる。
そのほとんどが、ある時期、つまり、
信長が家督を継いでから桶狭間の戦いまでに集中しているのである。
その例を、挙げてみよう。

天文二十年(一五五一)父信秀の死後、家督を継いだ信長を若輩と侮ったのであろう、
国内外の敵対勢力がいっせいに牙をむき出しにしてきた。
信長は今川義元との本格的な戦いをにらみつつ、国内統一を果たすために、
戦いと、謀略の日々を送ることになる。
そのなかで、信長のキーワードがいくつも含まれているのが「村木砦の攻略」である。
信長研究のいちばん基本となる資料は、太田牛一による『信長公記』である。
太田牛一は、当時のノンフィクション作家といっていいだろう。
若いころは信長に仕え、
戦場にも出て、弓の名手として活躍している。
自身が戦士であった誇りからでもあろうが、合戦についての記述は簡潔ではあるが、
要点を押さえていて、最も信用できるとされている。
桶狭間の戦いは奇襲ではなく、強襲だったという説を最初に唱えたのは藤本正行氏で、
一九八二年のことであった。
それは『信長公記』の記述を素直に受け入れようというところからきていて、
近年ではそれが主流となっている。本書でも、合戦については同じ立場をとる。
ただ、その他の記述については、
信長のことを悪く書きたくないという気持ちからだろうが、
筆を曲げていると思われるところがあり、全面的に信用するわけにはいかない。
(そういう点はそのつど明記するつもりである)
 さて、『信長公記』によると、村木砦の戦いは次のように記述されている。

「天文二十二年、今川方の手勢は岡崎に在陣して、
鴫原の山岡の城(愛知県知立町)を攻め滅ぼし、乗っ取った。
さらに、ここを根城に岡崎からも援護して、
信長方の小河(知多郡東浦町)の水野忠政の城に向かった。
今川衆は村木というところに堅固な砦を築き、そこに立てこもった。
近くの寺本の城(半田市中島町付近)も今川方に人質を出して加担し、
信長の敵となって小河城への通路をふさいでしまった」

小河城が陥落すれば、知多半島は今川方のものになる。
また、譜代の家臣である水野忠政を見殺しにしたとあっては、
以後、今川の調略に応ずる者が続出することになるであろう。
信長としては、どうしても小河城の付け城である村木砦を潰して
しまわなければならなかった。
しかし、城を強攻するには敵の三倍以上の兵が必要とされる。
それだけの数をそろえて出撃すれば、城に残っている兵力はわずかになってしまう。
国内の敵である清洲城の坂井大膳が那古野に攻め寄せてきたら応戦はできず、
城下は敵の思うように放火、略奪されてしまうことだろう。
そこで、前年に初対面をした舅斉藤道三に、
城下を守る兵を派遣してくれるよう依頼したのである。
道三は依頼に応じ、天文二十三年(一五五四)正月十八日、
美濃三人衆の一人である安藤守就を大将として千数百人の兵を出発させた。

「安藤が率いる部隊は正月二十日に尾張に到着した。
信長は居城那古野に近い志賀・田幡の両郷に陣取りをさせる。
そして、その日のうちに、陣取りお見舞いとして信長がみずから出向き、
安藤守就にあいさつした。
翌日が出陣の予定であったが、筆頭家老の林通勝(秀貞とも)と、
弟美作守が不服を申し立て、
その家臣である荒子の前田与十郎の城へ立ち退いてしまった。
家老衆は、『どうしたものでございましょう』と相談したが、
信長は『いっこうにかまわぬ』と答え、予定通りに出動した」

当時の織田家には、家督を継いだ信長に反発し、
弟信勝(信時とも)を擁立しようとする一派があった。
林兄弟はその中心である。
「大うつけ」の信長では国がもたないから、弟の擁立を図ったという説が多いが、
そうではあるまい。信長は日本の旧体制の破壊者だった。
そうであるなら、尾張という国内でも旧体制の破壊者であったはずである。
それに対し、旧体制側が反発するのは必然のことだ。
かねがね、信長の独断専行ぶりを苦々しく思っていた林兄弟が不服を申し立てのも
無理のないことだった。
それにしても、留守を他国の兵に預けてしまうという発想はどうなのだろうか。
援軍を頼んでいっしょに戦うのではない。自分は出かけてしまって、
国の守りをそっくり任せてしまうのである。そんな例はほかにない。
確かに、斉藤道三は舅ではある。前の年には初の対面をして、
強烈な印象を与えもした。だが、相手は「マムシ」という異名をもつ男だ。
美濃の国主になるまでの謀略・謀殺の数々は信長もよく知っていたはずである。
道三が安藤守就の出発の際与えた指示も、
「尾張で起こったことは逐一報告せよ」であった。
つまり、その報告によっては、別の命令が出る可能性もあったであろう。
もし、斉藤道三が裏切ったら・・・。城には最低限の兵しか残っていない。
しかも、正室である道三の娘お濃の方(帰蝶)がおり、
美濃からやってきた侍女も少なからずいたはずである。
信長には当時、生駒屋敷に吉野という側室がいる。
お濃の方とは結婚して六年になるのに、まだ子どもがいない。
夫婦仲がむつまじかったとはとても思えない状況である。
もし道三がその気になったら、信長の居城は簡単に手に入れることができたろう。
信長は拠点を失い、帰ってきても、その日から兵糧にもこと欠くことになる。
「やはり大うつけであつたか」と世の物笑いの種にされることは必定である。
それは信長が最も忌み嫌うことのはずだ。
それだけでなく、そんなところを敵に衝かれたら、
生き残る可能性は非常に低かったに違いない。
絶対に裏切られないという自信があったのか。
それとも、裏切られたらそれまでのことと、達観していたのか。

 

鈴木銀


〔大風の中の渡海〕

小河城まで陸路は、今川方の寺本城に扼されている。
そこで、信長は海路を選択していた。
伊勢湾を南下し、小河城の近くで知多半島の西岸に上陸しようとしたのである。
当時は、熱田神宮のすぐ近くまで海であったのだ。
ところが、翌日は大風が吹き荒れていた。

「船頭や、水夫は、渡海は無理だといった。
しかし、信長は、『源平争乱の昔、源義経と梶原景時が逆櫓を付けるかどうかで
争ったときの風もこのようなものであったろう。
ぜひとも渡海するから、船を出すのだ』と、
強引に舟を出させ、二十里ばかりの所を一時間ほどで着岸した」

信長は、海については素人のはずである。
それなのに、専門家である船頭の意見を取り上げず、強引に船を出させた。
村木攻撃の情報が今川方に漏れることを恐れたのか。
それとも、長引けば道三が裏切る可能性が高くなると判断したのか。
確かに航海は無事であった。
しかし、船頭たちが渡海はできないといったのだから、全く安全であったわけはなく、
何%かの確率で遭難する危険性はあったはずだ。
遭難の危険が高まったとき、信長が自分の力でなし得ることは何もない。
あえていえば、熱田神宮の加護を祈るしかないだろう。
専門家の意見をも無視してしまう自信は、いったいどこから来たのだろうか。
それとも、遭難してしまえばそれまでのことという達観があったのか。

鈴木銀


〔村木砦の戦い〕

村木砦の攻撃に関しては、危地に飛び込む行動パターンはない。
しかし、前述したように信長についてのキーワードが含まれているので、
取り上げておく。
二十二日は着岸した近くで野営。
二十三日に小河城に行って情勢を聞き、そこで一泊。
二十四日払暁、小河城の兵とともに出陣し、午前八時過ぎから村木城を攻撃した。

「城の北は要害の場所であるが手薄である。東は大手(表口)、西は搦め手である。
南は深い空堀が甕形にほられ、
底に立つと対岸が見えないほどの堅固な構えになっていた。
信長は、南の攻めにくいところを受けもち、兵を配置した。
若武者たちは我劣らじと攻め上り、突き落とされてはまたはい上がるという有様で、
負傷者、死者の数も分からぬほどだった。
信長は堀の端までくると、城壁の狭間三つを鉄砲で制圧するといって、
鉄砲を取替え、引き換えして射撃した。
信長が陣頭指揮しているので、兵士たちは我も我もと攻め上り、
次々に城壁に取りついては敵を突き崩した」

信長は早くから鉄砲という武器に着目し、
家督を継ぐ前から橋本一巴を師匠として射撃の訓練をしていた。
戦陣で自らその成果を試したのはこれが初めてである。
この経験によって、信長は鉄砲のさまざまな実戦データを得た。
「取替え引き換え撃ち放した」とあるので、
そばに発射準備をするための鉄砲足軽が三、四人いたのだろう。
信長の射撃は、小説なら百発百中と書くとところだが、
『信長公記』は言及していない。
このとき今川軍には鉄砲は実戦配備されてなかった。
鉄砲と対戦するのも、おそらくこれが初めてであったろう。
轟音とともに狭間を守る兵が次々と倒れていくのを見たら、
パニックに近い状態になったはずである。
百発百中でなかったとしても、
それはそれで貴重なデータとなったであろうと思われる。

「西の搦め手は信長の叔父織田信光の攻め口で、ここもまた激しく攻めつけた。
城の外郭に六鹿という者が第一番に乗り入れた。
東の大手口は水野忠政の攻め口である。
城方の活躍も比類ないものだったが、息つくひまも与えず攻められたので、
負傷者、戦死者が続出し、しだいに兵力も減ったため、降参を申し出た。
当然攻め滅ぼすはずであったが、味方の損害も大きく、
時刻も薄暮に及んだので、謝罪を聞き入れ、その始末は水野忠政に命じた」

村木攻めは、信長の初めての城攻めである。
ほかに選択肢はなかったと思われるが、
信長は強攻し、八時間を超える戦闘で攻め落とした。
それにしても八時間は長すぎる気がする。
死に物狂いで刀や、槍を振り回すことがいかに過酷な運動であるか。
たとえば、ボクシングでは三分戦うと、一分の休憩がある。
世界選手権でも、それが十五回、つまり一時間は戦わないのである。
野戦なら「次々と新手を繰り出して」、つまりメンバーチェンジして戦うことになる。
そうでなければ、兵は気力も体力も尽き果て、動けなくなってしまう。
城ならば外郭が破られても、本丸、二の丸のように守兵がこもる要害があり、
そこを包囲したところで交代や、休憩がある。
そのようなものが村木砦にもあったのだろうか。
損害は大きかったというものの、村木攻撃は一つの成功体験になったのであろう。
以後、信長が直接指揮する城攻めは、力攻めが多く採用されることになる。
一月二十六日、那古野に帰陣した信長は安藤守就の陣所に行って礼を述べ、
村木攻めについて強風の中の渡海のことからくわしく説明した。
守就は帰国後、信長から聞いた話をそのまま伝えた。
道三は「隣にはいてほしくない、すさまじい男だ」といったという。

鈴木銀


〔弟信勝の謀反〕

村木砦攻略の二年後、弟の信勝が謀反を企てる。

「さて、信長の一番家老林通勝、その弟林美作守、柴田勝家らが相談し、
三人で信長の弟の信勝を擁立して、
謀反を企んでいるという噂があれこれと聞こえてきた。
信長は何を考えたのか、弘治二年(一五五六)五月二十六日に、
叔父の織田安房守とただ二人で、
清洲から那古屋の城にいる林通勝の所に出かけていった。
弟の美作守は『ちょうどよい機会だから、信長に腹を切らせよう』と、いった。
しかし、通勝はあまりに恥ずべきことと思ったのだろう、
『三代相恩の主君をここでおめおめと手にかけては、
天道の怒りもまことに恐ろしい。どうも決心がつきかねるので、
今は腹を切らせることはできない』といって命を助け、信長を無事帰した」

つまり、謀反の張本人のところへ二人きりでのこのこ出かけていったのである。
林兄弟は「一両日過ぎてから、敵対の意志を明らかにした」ので、
目的が説得であったのなら、成果なしに終わったのである。
様子を見るつもりなら、信長本人が行くのは危険すぎるであろう。
家督を継いでからまだ四年だが、信長の手はすでに数々の謀略で血に染まっていた。
己が行った謀略・謀殺が、自身にはね返ってくる可能性は考えなかったのだろうか。
もし、林通勝の優柔不断がなかったら、信長はここで死を迎えていた。
なぜ、そんな危険を冒したのだろうか。
林通勝は絶対に自分を殺せないという自信があったのか。
それとも、運を信じていたのか。

鈴木銀


〔稲生の戦い〕

ついに織田信勝の謀反が明らかになった。
信勝が信長直轄地であつた篠木三郷(現春日井市)を横領したのである。
これは、信勝による織田家の当主宣言であるといってよい。
さらに信勝は、庄内川の端に砦を築いて川の東部分の地も自分のものにしようとした。
それを聞いて信長は、川を渡った名塚に先んじて砦をつくり、佐久間大学を入れた。
八月二十三日、信勝方が名塚の砦に向って出陣する。
ただし、信勝自身は出陣せず、名代として柴田勝家が千人、
林佐渡守が七百人を率いて、別々に進軍してきた。
翌二十四日、信長も七百人の兵を率いて清洲から出陣。
両軍は清洲から約五キロ東の稲生原で衝突する。
信長にとって幸いだったのは、前日に降った雨で川が増水し、
信勝側がまだ合流していなかったことだ。
戦いは、正午ごろ始まった。
信長は兵を二つに分け、主力を東南の柴田勢に対して攻撃させた。
「過半の者」とあるから五百人くらいであろうか。
しかし、相手は二倍の兵力があり、織田家最強の武将柴田勝家が陣頭に立っていた。

「さんざんに叩きあって、山田次郎左衛門が討ち死にした。
首は柴田勝家が取り、信長方は手傷をうけて引き退く。
佐々木孫介そのほかの屈強な者たちが討たれて、味方は信長の前に逃れてくる。
このとき、信長の側には、織田勝左衛門、織田造酒丞、森可成、
ほかに槍持ちの中間衆が四十人ほどいるばかりだった」

信長が鍛えた親衛隊も、二倍の兵を率いる勝家にはまだ及ばなかったものと見える。
信長全半生の最大の危機であった。このとき、信長はどうしたか。

「大音声を上げて怒ったのである。」

柴田勝家の前に進み、声をはりあげて勝家を叱りつけたのであろう。
その声と、怒るさまを見て、勝家は臆した。
そうとしか考えられない。
勝家が臆さなかったら、陣頭に立つ信長を見て、
『あれぞ織田家の御敵。三郎殿の御首を頂戴せよ』
とでもいえば、それで終わっていた。
戦いは気のものである。
主将が臆したからそれが部下に伝染した。

「敵は、そのご威光に恐れて足を止め、ついに逃げ去った。」

勝家も気がつくと逃げていた。逃げながら、
「あの殿には勝てない」と思ったであろう。
 思いがけない大きな音は、確かに人を驚かす力がある。
朝鮮戦争のときの有名なエピソードである。
国連軍として参加していたフランス軍の小部隊に、中国軍が突撃をかけてきた。
このとき、だれかが手動のサイレンを鳴らした。
その音を聞いた中国軍の兵士はびっくりして、一瞬足を止めた。
次の瞬間、中国兵は全員が逃げ出していたのである。
信長の声が大きく、甲高いことはよく知られている。
しかし、声はサイレンと違ってすぐ消える。大音声に続く、
鋭い眼光、凄まじい「憤怒」の形相、
自分めがけて進んでくるその姿の迫力がなければ、
勝家を臆させることはできなかったろう。
このときの信長からは、正に鬼神も避けるような強烈なオーラが発散されていのだ。
そのようなオーラを発散するためには、
信長の心の中に強力な精神エネルギーが存在しなければならない。
そのエネルギーを発生させた源泉とは何だったのか。

鈴木銀


〔林美作守を討つ〕

柴田勢を敗走させた信長は、深追いはしなかった。

「信長は南に向かい、林美作守の手勢に攻めかかる。
黒田半平と林美作守は数時間にわたって切り合い、半平は左手を打ち落とされた。
互いに疲れ、息をついでいるところへ信長が来て、美作守に打ちかかった。
そのとき、織田勝左衛門の使用人の口中杉若の活躍がりっぱであったので、
後に杉左衛門尉と名乗らせ、侍にされた。
信長は林美作守を突き伏せ、首を取り、無念を晴らした」

たぶん、美作守も自分めがけて突進してくる信長の凄まじい形相を見て、
ひるんだのであろう。
美作守が倒れると、信長は駆け寄り、その首を取った。
この瞬間、信長は高い達成感を味わったに違いない。

デーヴ・グロスマンの『戦争における「人殺し」の心理学』に、
興味深い調査結果が記載されている。
第二次世界大戦中、敵との遭遇戦に際して、火線に並ぶアメリカ兵士一〇〇人のうち、
平均してわずか一五人から二〇人しか「自分の武器を使っていなかった」のである。
しかもその割合は、
「戦闘が一日じゅう続こうが、二日三日と続こうが」つねに一定だった。
その理由として、第二次大戦中ずっとこの問題を研究してきた
S・L・Aマーシャル将軍は、こう結論づけた。

平均的なかつ健全な・・・・者でも、同胞たる人間を殺すことに対して、
ふだんは気づかないながら内面にはやはり抵抗感を抱えているのである。
その抵抗感のゆえに、義務を免れる道さえあれば、
何とか敵の生命を奪うのを避けようとする。
・・・・・いざという瞬間に、(兵士は)良心的兵役拒否者になるのである。

これは敵の表情が見える場合や、敵とのつながり、目と目が合ってしまったとか、
敵が人間的な動作をしたときなどに強まるという。
つまり、同じ人間じゃないか、どうして殺しあうのかということであろう。
もちろん、この感情は後天的な環境によって変化する。
宗教、教育、時代背景、敵国に対する国民感情などである。
その一方で五パーセントの兵士が、敵を殺したときに達成感を覚えたという。
その中には性的興奮を感じた者もあった。
兵士にその二つのタイプがあるなら、織田信長がどちらに属するか。
考えるまでもなく、明らかである。

戦いは一方的となり、敵は敗走した。
当時は、馬というのはほとんど移動のためのもので、
騎馬武者も戦闘になれば馬を降りて戦うのが普通である。
また、名のある騎馬武者のそばには必ず三、四人の歩兵がつきそっていた。
そのうちの一人が槍持ちである。
だから、映画やテレビで騎馬隊が疾駆するシーンはみんな嘘だといっていい。
このときも、みんな馬から降りて戦った。敵が敗走したので、
騎馬武者ははじめて馬に乗る。

「みんな、それぞれの馬を引き寄せ、打ち乗っては敵を追撃し、
後から後からと首をとって戻ってきた」

このとき取った首級は四百五十以上という大勝利だった。
この戦い以降、信長の親衛隊は最強の突撃部隊となる。
信長が柴田勝家を敗走させたのを目の当たりにすれば、
全員がこの殿様といっしょなら負けることはないという自信をもったのに違いない。

「敵に攻められ、身内には背かれ、信長は孤立していた。
しかし、たびたび手柄を立てている屈強の侍衆が七、八百人もそろっているので、
合戦で一度も敗れたことはなかった」

鈴木銀


〔天王寺砦の救出〕

弟信勝の謀反の四年後に、「信長最大の賭け」といわれる桶狭間の戦いが起こる。
司馬遼太郎氏は『街道をゆく 濃尾参州記』の中で、こう述べている。

ついでながら、信長のえらさは、この若いころの奇跡ともいうべき襲撃とその勝利を、
ついに生涯みずから模倣しなかったことである。
古今の名将といわれた人たちは、自分が成功した型をその後も繰りかえすのだが、
信長にかぎってはナポレオンがそうだったように、
敵に倍する兵力と火力が集まるまで兵を動かさなかった。
勝つべくして勝った。信長自身、桶狭間は奇跡だと思っていたのである。

司馬遼太郎氏は、わたしが最も好きな作家であり、
歴史における新しい視点を次々に開いてみせてくれたという点で
尊敬する文明批評家でもある。
ただ、この信長についての見解は二つの点で疑問をもっている。
一つは、桶狭間の戦いは奇跡ではなく、
信長はある程度の成算をもっていたはずだということだ。
通説とは反するが、わたしはそう信じている。
そのことについては章を改めて詳述したい。
もう一つは、信長は桶狭間の戦いの後でも、
三倍以上の敵に対して突撃を行ったことがあるという事実だ。
桶狭間の戦いにおいて、信長が戦ったのは平滑地ではなかった。
このような地形では兵力差の効果は減殺される。
しかし、このときの突撃は平滑地であったのである。

信長最大の難敵は大阪の一向宗総本山石山本願寺であった。
本願寺との戦いは一五七〇年から、十一年も続くのである。
天正三年(一五七五)十月、信長と本願寺との間に講和が結ばれたが、
これは一時的な停戦といってよかった。
翌年四月に再び戦いが始まり、
信長は荒木村重、長岡藤孝、明智光秀、塙直政に対して本願寺攻撃の命令を下す。

「敵は楼の岸・木津の二か所に砦をもち、難波方面からの航路を確保していた。
木津を奪えば、敵の通路をいっさい断てるので、
『木津を奪い取れ』と信長は命令を下した。
天王寺砦には佐久間信栄、明智光秀を配置した。
五月三日の早朝、先陣に三好康長ほか、根来、和泉衆が、二番手に原田備中守、
それに大和、山城衆が協力して、木津に攻め寄せた。
ところが、大坂方は楼の岸から打って出て、一万ばかりの軍勢で味方を包囲してきた。
そこで数千丁の鉄砲でさんざんに撃ち込むと、敵の軍勢はひるんだ。
原田備中守はみずからその敵を引き受け、数刻の間戦ったけれど、
優勢な敵軍に囲まれ、ついに原田備中守・塙喜三郎・塙小七郎・蓑浦無右衛門・丹波小四郎らは枕を並べて討ち死にした。そのまま一揆どもは天王寺の砦へ向かい、
包囲して攻めたてた」

本願寺軍の反撃にあって、織田軍は総崩れになったのである。
天王寺は四月に塙直政が修理しただけの貧弱な砦で、堀も整っておらず、
古畳や、殺した牛馬までを盾にして防いだという状態だったという。
信長は、京都で味方が苦戦という知らせを聞くと、出陣を決意し、
諸国に陣触れを出した。

「五月五日、信長は天王寺の味方を後方から救援するために、出馬する。
鎧もつけず、ひとえものを着ただけで、わずかに百騎ほどで若江の陣に着いた。
次の日は滞在して先陣の様子を聞き、軍勢をそろえようとしたが、
とっさの出陣であったので、うまく体勢を組めなかった。
着陣するのは指揮官ばかりで、兵が追いつかないのである。
しかし、天王寺からは『あと数日間さえ持ちこたえるのはむずかしい』と、
何度も知らせてくる。このまま味方の者が眼前で攻め殺されては、
世間の非難を受けるのは必至で、それではあまりに無念だと、信長は思った。
五月七日、信長は馬を進め、一万五千ばかりの敵に、
わずか三千ほどの軍勢で立ち向かう。
軍勢を三段に配備して住吉方面から攻めかかったのである。
先陣の一段は、佐久間信盛、松永久秀、細川藤孝である。
ここで信長は、荒木村重に先陣をつとめよ、と命じたが、
村重は『われわれは木津方面の守備を引き受けましょう』といって、応じなかった。
後になって、信長は『荒木村重に先陣をさせなくてよかった』と語った。
二番手は、滝川一益・蜂屋頼隆、羽柴秀吉、丹羽長秀、稲葉良通、
氏家直元、伊賀定治である。
三番手は馬廻り衆であった。
信長自身は、先手の足軽に混じって駆けまわり、
『ここだ』『あそこだ』と指揮をとっていたところ、
鉄砲で足を撃たれ、軽傷を負った。
しかし、神のご加護のためか、何の支障もなかった。
敵は数千丁の鉄砲から降る雨のごとく弾丸を撃って防戦したが、
味方はどっと突っこんで敵陣を切り崩し、一揆どもを切り捨て、
天王寺へ駆け込んで味方と合流した」

信長は、総司令官であると同時に、前線指揮官であり、
切り込み隊長までやってのけたのである。
それだけでも並の武将でないことがよく分かる。
古今東西の名将を見渡しても、匹敵するのはマケドニアのアレキサンダー大王と、
ローマのジュリアス・シーザーぐらいなものだろう。
ただし、総司令官は切り込み隊長をすべきではない。
もし、万一のことがあったら、指揮系統が麻痺してしまうからだ。
当時においては麻痺どころではない。信長が死ねば、
軍そのものが崩壊してしまうのである。
信長もよくそれは知っていた。
だから、桶狭間の戦い以後は切り込み隊長的なことはしていない。
だからこそ、なぜこのときだけ、という疑問がわくのだ。
しかも、本願寺勢には鉄砲集団として知られる雑賀衆が参加していた。
鉄砲が数千丁というのは誇張ではない。
それでも、危険な突撃を敢行したのである。

しかし、ここからがまたすごい。

鈴木銀


〔再度の突撃〕

陣中を突破されたのに、敵は大軍であるという自負からだろう、
少しも退かず、備えを立て直す。
その様子を見て、信長はもう一度、一戦に及ぼうと決意するのである。

「このとき、家老衆がみな、『お味方は無勢です。今は合戦を控えるべきです』
と進言した。
しかし、信長は、『今、敵がこのように我われ近くに詰め寄ったのは、
天が与えたよい機会である』という。
そして、軍勢を二段に立て直すと、また敵に切りかかった。
敵を敗走させ、追撃して、大坂城の木戸口まで追い詰め、
二千七百余りの首を討ち取ったのである」

軽傷とはいえ、鉄砲の一撃を受けているのである。
支障がなかったのは、運がよかったというほかない。
それなのに、もう一度突撃しようというのだ。
すさまじいとしかいいようがない気力である。
あるいは、信長はこんなふうに考えたのかもしれない。
天王寺砦に入ったものの敵は退かず、陣を整えている。
援軍の到着以前に、
三倍以上の敵が数千丁の鉄砲をもって攻撃してきたらどうなるだろうか。
兵というものは、勢いに乗って攻撃しているときは強い。
また、最後の拠点で守っているときも強い。
しかし、思いがけない攻撃を受けたときは意外にもろいものである。
ましてや、敵は戦なれしていない一揆勢だ。部隊間の連携も十分には行えないだろう。
何もせず敵の攻撃を待つよりは、
攻撃に転じて各個撃破していく方が勝利の確率は高いと。
そして、結果はその通りになった。
再度の突撃の真相はそうだったのかもしれない。
それでも、最初の突撃のリスクまで否定することはできない。
最初の突撃のとき、荒木村重に先陣を命じたが断られた。
当時の武将は先陣を命じられると喜んだものである。
功名の立てどころだからだ。
もちろん、危険はある。
しかし、たとえ戦死したとしてもその死にざまが見事なら、
必ず後継者が取り立てられた。
そうしなければ、死を覚悟の戦いを家臣に強いることができないからである。
荒木村重は、いわゆる猛将タイプではない。
しかし、戦いにも外交にもすぐれ、一万石程度の身上から身を起こし、
この前年には攝津三十万石全域を支配下に置くほどになっていた。
信長が北陸での戦いなどで忙しく、摂津方面は村重に任せていたからではあるが、
この時期、織田家中で村重と同レベルの勢力をもっていたのは柴田勝家、
佐久間信盛などごくわずかであった。
村重にはこんなエピソードが伝えられている。
織田家中での宴席のとき、信長が刀を抜き、餅を串刺しにすると、
村重の前に進んで眼前に突きつけたというのである。
村重はたじろがず、唇を太刀に寄せると餅をむしゃむしゃ食べた。
そして、食べ終わると、自分の両袖で太刀を拭い、深々と平伏したという。
このエピソードが真実なら、村重は冷静であり、沈着であり、頭の回転も早く、
かつ豪胆な性格であったといえよう。たとえ作り話であっとしても、
エピソードというものはそれらしく作られるものだ。
その村重が先陣を拒否したのである。
冷静に状況を判断できるタイプだったからこそ、
突撃の無謀さをすぐに理解したのであろう。
それほどに勝算のない突撃だったのだ。
(ちなみに、荒木村重が謀反に踏み切るのはこの二年後である。
突撃の拒否が何らかの影響を与えたことは否定できないだろう)
信長はなぜそんなリスクの大きい突撃を敢行したのか。
自分の運を信じていたのだろうか。
それとも、ほかに理由があったのだろうか。

鈴木銀


ここで、みなさんのご意見をお聞きしたいのです。
1章と、2章。どちらが先の方がいいと重いますか。

今、わたし迷ってしまったので・・・。

鈴木銀


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