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[参考] 信長 第1章【信長とはどんな男だったのか】 鈴木銀一郎

鈴木銀一郎先生が、BBS「金羊亭」で、
織田信長の研究に関する記事を掲載していますので、ご案内します。


信長 第1章 信長とはどんな男だったのか (2009年8月21日)

〔乳児体験〕

親の愛に恵まれない子だった。
織田信長、幼名吉法師は、天文三年(一五三四)五月十二日、
織田信秀の第三子として生まれた。
母は『信長公記』によれば、信秀の正室土田御前である。
信秀は古渡に城を築いて、翌年土田御前とともにそちらに移る。
信長には那古野城(名古屋市中区)を与えて、林通勝、平手政秀、
ほか二名を傅役として配した。
満一歳になるかならぬかのうちに両親から引き離されたのである。
乳児のころの信長はいわゆる燗の強い子であった。
乳母の乳首を次々に噛み切ってしまったという話が残っている。
乳母たちは、御領主様の御子ということで緊張し、
おずおずと赤子を抱いたことであろう。
信長はその緊張を敏感に感じ取る。求めているのは母の全き愛である。
赤子はその不満を口に含んでいる乳首に向け、強く噛む。
果たして本当に乳首を噛み切ったかどうかはわからない。
しかし、乳母が悲鳴を上げるほどには強く、
乳母がその役を辞退するほどに痛かったに違いない。
ここで注目すべきなのは、赤子がプイと乳首を離したのではなく、
泣いて不満を訴えたのでもなく、乳首を噛むという攻撃的な手段をとったことである。
つまり、信長は幼いときから攻撃的な性向をもっていたのである。
乳母の件はやがて解決された。ある女性が乳を含ませると、
赤子は喜んで乳を吸ったのである。その女性の抱き方や、
声のかけ方が記憶に残る母のそれと重なったのであろう。
信長はその女性を「大御乳」と呼んで敬愛した。池田恒興の母、養徳院である。
池田恒興は信長の二歳年下で、十歳のとき信長の小姓となった。
以後、最も信頼できる家臣の一人となり、信長の主要な戦いに参戦した。
本能寺の変後は秀吉に仕えた。
満足できる乳母を得たとしても、肉親の愛は得られぬままであった。
人は、普通、両親の愛情のこもった声を聞き、抱きしめられ、持ち上げられ、
手を引かれ、五感によって「愛されている」という実感を得ながら育つ。
信長は、そういう実感を得ぬまま成長した。
「三つ子の魂百まで」というが、両親の愛情不足に対する慢性的な不満と、
攻撃性は信長の生涯を通じた性向となる。

鈴木銀


〔家督を継ぐまで〕

幼児期については、『信長公記』に、
「天王坊という寺へ御登山なされ」という語句があり、
一般に「天王坊という寺で勉学した」と訳されている。
信長研究者も、それ以上ふれることはないが、
わたしは重要なキーワードだと考えている。
『信長公記』では時期は明記されていないが、
勉学のためなら数えで六歳の時と考えてよいだろう。 
天王坊とは真言宗亀尾山安養寺天王坊(名古屋市中区)であると思われる。
安養寺は明治の神仏分離令によって、現在の那古屋神社となったが、
当時は十二坊があり、天王坊はその第一坊であった。
一説では、津島神社の天王坊であるともいわれる。
どちらにしても、本尊は牛頭天王である。
牛頭天王はインドの祇園精舎の守護神で、仏教とともに日本にやってきた。
そして、スサノオノミコトと習合し、除疫、授福の神として、「天王さん」、
「天王さま」と呼ばれ、親しまれた。
牛頭天王の像は一般的には、頭に牛頭をいただき、顔に憤怒の相を浮かべ、
右手に斧、剣、矛などの武器を持つ。
幼い吉法師は、その憤怒の相をどう見たのだろうか。
信長は、後の言動から見ても、
恐怖心を抱くことがはなはだ少なかったように思える。
ならば、幼少においても、恐れより、好奇心を抱いたのではないだろうか。
「この像は何か」
と、質問したことであろう。
僧の説明で、吉法師は牛頭天王がスサノオノミコトと習合した神であることを知る。
織田の一族は、越前二の宮である剣神社の神官の出である。
吉法師はそれを知っていたと考えるのが自然であり、
スサノオの名を聞いて親しみを感じたであろう。
牛頭天王の憤怒の相は、自分が慢性的に感じている「怒り」を
代弁するものに見えたであろう。
信長は、後に津島神社(当時は牛頭天王社と称した)を自分の氏神とした。
信長は中世人であり、神仏の崇敬の念は現代人の尺度で計ってはいけない。
自分の氏神にするという行為は大きな意味をもっている。
越前を支配すると、剣神社も氏神とする。
信長が崇敬した熱田神宮の祭神は草薙剣であるが、
相殿の神の中にスサノオノミコトの名がある。
信長が、スサノオノミコトと牛頭天王を崇敬していたのは、
当時よく知られていたようだ。
摂津の茨木神社(大阪府茨木市)は、
織田軍の破壊を免れるために天石門別神社の名を隠して「牛頭天王社」と号し、
後にスサノオノミコトを合祀したほどである。

『信長公記』における、信長の次の記述は十三歳の元服であるが、
これについては後に述べる。

次が、有名な「うつけぶり」を含む一節になる。 

本書において、何の説明もなく「 」でくくって記述しているのは
『信長公記』の口語訳である。ただし、逐語訳ではない。
改行は原文に関係なく行っているし、敬語は必要以外省いてある。
固有名詞に説明を加えている場合、
逆に本筋と関係ない固有名詞は省略している場合もある。
意訳もしているが、大きな意訳の場合は必ず注釈をつけている。
『信長公記』は、講談のように読み聞かせた場合もあって、
調子がいいものであり、逐語訳では、その雰囲気は出ない。
また、本書の読者は、歴史に興味のある一般読者を想定しているので、
その方が理解しやすいと考えたからでもある。

「信長は十六、十七、十八までは、別に遊びごとはしなかった。
朝夕に乗馬の稽古。三月から九月までは川で水練をするので、
泳ぎはとても達者だった。
折りにふれて、小姓や中間たちに竹槍で模擬戦闘をさせ、
「とにかく、槍は長い方が有利だ」といって、
三間槍や、三間半の槍を作らせていた。
そのころの身なりといえば、湯帷子の袖を外し、短い袴で、
火打ち袋などをいろいろと身につけ、髪は茶せんまげにして、
もとどりを紅や萌黄色の糸で巻き、朱鞘の太刀を差し、
お付きの者の武具をみな朱色にさせていた。
市川大介を召し寄せて弓の稽古。橋本一巴を師匠にして鉄砲の稽古。
平田三位をいつも召し寄せて兵法の稽古。鷹狩りも行った。
見苦しい習慣もあった。町を通るときは、人目をはばかることなく、
栗や柿はいうまでもなく、瓜までもかぶりついて食べた。
町中で立ちながら餅をほおばり、人に寄りかかり、
人の肩にぶら下がるような歩き方しかしなかった。」

いでたちは「抵抗する若者」の典型であり、目立ちたがり屋のそれである。
行動は、行儀も何もあったものではない。人々は「大うつけ」としか呼ばなかった。
傅訳の平手政秀は一生懸命吉法師をしつけようとしたに違いない。
しかし、結果は放任主義と同じになってしまった。
愛を知らず、我慢を強制されずに育つ。
現代風にいえば、信長はスポイルされて育った。
さらに、その身分から、信長には人を見下す癖がついていた。
見下した態度を取れば取るほど、人は命令に服することも知った。
ただし、これには大きなデメリットももたらす。
これは、言葉不足、説明不足という行動パターンである。
人は言葉を二つの局面で使用する。
一つは心の内面における思考形成のツールとしてであり、
もう一つは対外的なコミュニケーションのツールとしてである。
思考形成についての限界は、その人間がもつ語彙であり、
それに含まれる概念である。
つまり、知る限りの言葉を自由に使うことができる。
しかし、コミュニケーション、特に相手を説得しようとする場合は、
言葉の使用は自由ではない。相手や状況によって、
言葉を取捨選択しなくてはならない。
それには経験による訓練が必要である。
しかし、信長はその訓練の機会を自ら捨てさった。
相手を見下して、(威圧的な態度で)命令さえすれば、要求が通ったからである。
信長は欲することだけを命令し、知りたいことだけを質問した。
ついに説得技術の訓練は行われなかったのである。
合理的な思考というのは、原因と結果とを常識とか、先入観に囚われずに、
自分で考えて結びつけるという思考形態であり、
信長の生涯を通じて変わっていない。
前出の引用のも、竹槍の模擬戦闘を見て、
「槍は長い方が有利」という結論を出している。
合理的思考という思考パターンはこのころには完成したと見てもよいだろう。

引用では、学問について何も触れていない。
そこで、信長は軍事以外の勉学は嫌いであり、
一般教養が足りなかったとする説さえある。
確かに、信長には漢詩や、和歌をつくったという記録はない。
だからといって、教養はなかったのだろうか。
十六、十七、十八歳といえば、遊びたい盛りであろう。
しかし、ひたすら兵法や武芸の鍛錬に明け暮れている。
これは強烈な向上心を持ち合わせていたと考えるしかない。
また、後年ポルトガルの宣教師たちに対して見せた貪欲な知識欲は、
成年になってから急に現れたとは思えない。
青年期もまた、そうであったろう。
向上心と、知識欲を合わせれば、
天王坊における吉法師は優秀な生徒であったはずである。
青年期に勉学の記述がないのは、その時すでに、
学ぶべきことは学んでしまったからだと考えたい。
つまり、武将に必要な漢籍の素養は充分にあったのである。

この章の目的は、読者に信長の全体像を想像できるまで、
その精神構造を細分化し、提供することにある。
信長の全体像は家督を継いでから、変化を始める。
まずは、謀略・謀殺と、有能な前線指揮官としての要素が入る。
さらに、年を経るほどに複雑になり、常人には把握することはむずかしい。
残忍性、殺人嗜好、自己の神格化などの要素が加わってくるからである。
しかし、信長が家督を握るまでと限定すれば、
われわれ常人でも何とか想像できないことはない。
ここまで述べてきたことで、信長の基本的な性向はほぼでそろったといえる。

肉親の愛の不足と、それに対する絶えざる不満。
そこからくる怒りっぽさ。
攻撃的な性向。
放任主義による自分本位な考え方。
相手を見下し、威圧する態度。
命令口調。
説明力不足。
合理的思考。
旺盛な知識欲、好奇心。
高い向上心と、学習能力。
訓練された身体機能。
目立ちたがり屋。
常識無視、さらにその発展型である体制否定。
牛頭天王への崇敬。さらに、牛頭天王と自己の同一視。
これに、肉体的には鍛え抜かれた身体能力が加わる。

年齢は、現代からいえば高校生である。
学業、体育、ともに学内一といってもいいほど抜きん出て優秀である。
容貌はポルトガル人が信長の死後描いたという肖像を見ると、
細面で、意志が強そうな印象を受けるが、イケ面といっていいだろう。
これだけなら、アイドルになるはずである。ただ、生まれはいいのだが、
家庭環境に難があって、自分勝手な面が強すぎる。
現代なら仲間外れにされることだろうが、
信長の場合は、中世における領主の嫡男である。
その男の無理は何でも通ってしまうのである。
こういえば、青年信長の全体像がつかめてくるのではないか。
残っているのは、理想主義者としての側面である。

鈴木銀


〔戦国武将と禅宗〕

戦国武将は常に死を意識して日々を送っていたであろう。
いつやってくるかもしれない死に対し、どう向き合ったらいいのか。
それと同時に、(全員ではないにしても)相手を殺した場合には、
犯した殺生戒について考えざるを得なかったろう。
戦国武将は戦闘指揮官であるが、領主としての側面もあった。
むしろその方が重要の場合が多かったろう。
その領主としての心がまえ、つまり一種の帝王学はだれかから学ばねばならなかった。
戦国武将の多くはそれらを禅宗の僧に託した。
そのほか、禅寺は武将の幼い後継者候補の教育機関であった。
また、禅僧はしばしば使僧(外交僧)の役割も果たしている。
禅宗と深い関係があった武将をあげてみよう。 
一介の浪人から身を起こして国持ち大名となり、
戦国時代の幕開けを行った北条早雲は
若いころ大徳寺などの京都の禅寺で修行していた。
もっとも、経典を読むより兵略書を読む方を好んでいた形跡もある。
上杉謙信は七歳のとき春日山城下の曹洞宗寺院林泉寺に入れられ、
十四歳までの七年間天室光育から厳しい禅林教育を受けたとされる。
武田信玄も五山派の禅院である甲斐長善寺の岐秀元伯のもとに参禅し、
その影響を受けた。
徳川家康は今川氏の人質時代、今川義元の師であり、
ブレーンであった臨済宗の太原雪斎から教育を受けた。
伊達政宗も、岐秀元伯の弟子である虎哉宗乙の教えを受けている。
正宗が「独眼竜」と名乗ったのも宗乙の示唆であったと考えられている。
安国寺恵ケイは、禅僧のまま六万石を領する大名となった。
そして、徳川家康の師ともなった太原雪斎は、たびたび総大将となって出陣し、
織田信秀と戦い、勝利を収めている。異色ともいえる禅僧であった。

鈴木銀


〔沢彦と信長〕

織田吉法師が、織田三郎信長となったのは十三歳元服の時である。
三郎という名は、信秀も名乗っていた名である。それを与えることで、
父は信長に織田家の家督を継ぐ者という権威を授けたと見ていいだろう。
そして、信長という名は臨済宗妙心寺派の禅僧沢彦宗恩が考えた名であるとされる。
沢彦の生年は、永正三年(一五〇六)であるようだ。
信長の傅役(守役)であった平手政秀の正室仙の叔父にあたり、
本姓は舎人だったという。
諸国行脚の末、永泉寺(犬山市)の泰秀宗韓に参禅して、その印可を受けた。
この永泉寺を菩提寺としていたのが平手政秀であった。
当然、政秀がこの命名にはからんでいたことだろう。
「信長」という名には「反切」という漢字二字を用いて
一つの漢字音を表す呪術的な手法によって、
「天下を制する」という暗喩が込められている。
上の字の頭子音と、下の字の韻とを合わせ、できた字に心願成就を託するのである。
この手法によれば、「信」の子音「S」と、「長」の韻「OU」が合致すると、「桑」(SOU)になる。
日本は、古来から「扶桑」と呼ばれていたので、「桑」は日本を表す。
「信長」=「日本」
つまり、信長が天下を制するという暗喩なのである。

信長は元服の際、自分の名が禅僧沢彦によって選ばれたことを知った。
これが推理の第一歩である。
たぶん、「天下を制する」という意味も聞かされただろう。
元服というめでたい席で、儀式の後は酒宴も開かれた。
もちろん、守役である平手政秀も列席している。
そういう話が出なかったはずはない。
ましてや、選んだ沢彦は政秀の縁者である。
「三郎様、あなたの信長という名は実に縁起のよい名でございますぞ」
平手政秀は酒が好きであった。
ほろ酔いかげんで、得意気な政秀の顔が目の前に浮かんできそうではないか。
信長は知識欲旺盛な十三歳の少年である。
自分の名の由来が興味を引かないということはない。
沢彦という禅僧が自分の傅訳の縁者で、隣国に住んでいるのを知れば、
必ずこういったはずである。
「俺はその和尚に会ってみたい。会って、もっとくわしい話が聞きたいのだ。
爺、その偉い和尚とやらを那古野に呼んでくれないか」
政秀は喜んで沢彦を呼んだであろう。
沢彦には、その招きを拒否する理由はない。
那古野城を訪れた沢彦を、
信長は、後にイエズス会宣教師ルイス・フロイスに対したときと同じように、
質問攻めにしたであろう。
質問は、いずれ「天下を制する」ということに及んだはずである。
ここで、沢彦が「印可を受けた」禅僧であるということが重要なポイントとなる。
これまでの歴史研究は、あまりにも宗教について無関心でありすぎたのではないか。
禅宗における「印可」とは、師僧が弟子に対し、
「明らかに悟りを得ており、円熟の境地にある」という証明である。
沢彦はこのとき四十歳。その人柄についての記述はなく、
信長にどんな話をしたかはわからない。
しかし、悟りを開き、円熟した境地にあると師が認めた人物である。
沢彦は、目の前にいる十三歳の少年が将来織田家の当主となる可能性が
高いことを知っている。
自分の言葉が、尾張に住む人々が影響を及ぼすことを
体に痛みを感じるほどに分かっている。
師との問答よりも全身全霊で一語一語を選び、少年にも理解できる言葉で、
為政者としての心がまえを説いたであろう。
信長が天王坊で学んだのは漢籍の読解だけであったろうと思われる。
沢彦の君主論を聞いて、信長も、初めて「師を得た」と感じたでことであろう。
「天下」を説明するためには、中国の歴史、
いくつもの王朝の興亡を説明しなくてはならない。
そして、その原理である「天命思想」や「易姓革命」も。
君主は天帝からの天命によって国を統治するという考えが「天命思想」である。
その君主の徳が失われると、相次いで旱魃や洪水などの天災が起こり、
国内が混乱する。すると新しい英雄が現れて、
王朝を倒し、天帝からの天命を受けて、新しい王朝を建てる。
君主の姓が変わる、つまり、「易姓革命」である。

「では、徳とは何か」。
次の質問は当然そうなるはずである。
そもそも「武」という文字は「戈を止めて用いない」という意味がある。
沢彦は周王朝の始祖である武王の「七徳の武」を語ったに違いない。
後に、沢彦が命名した「岐阜」という地名の「岐」は、
周の一族が拠ったという「岐山」からきている。
当時の教養人である沢彦は、当然、武王にまつわる故事にくわしかった。
「七徳の武」というのは、武によって
 禁暴  暴力を禁じ
 しゅう*兵  戦争をやめ   *=(口の下に耳)偏に戈
 保大  大国を保持し
 定功  功を定め
 安民  民を安らかにし
 和衆  衆を和合させ
 豊財  物資を豊富にする
という七つの徳をもたらすことである。
最後の三つの徳については、
十三歳の領主の息子にはよく理解できなかったであろう。
そこで沢彦は、まず民のことを知るべきだと説いたであろうと思われる。
「民がどんな暮らしをしているか、それをお知りになりなさい。
また、民が何を喜ぶのか、何に苦しんでいるのか、
何に悲しむのかも知る必要があります。
民の本当の姿を知るためには、民とお話なさいませ。
お側の方だけと話していたのでは、それは分かりません」
もちろん、実際にこういったという資料は一つもない。
しかし、沢彦が禅というフィルターでろ過した徳を語ったことは疑いないと思われる。
それは禅問答のような分かりにくい手法ではなく、
十三歳の少年が理解できる言葉で語られたであろう。
そして、最後に「日本とは」という問いになる。
あるいは順序は逆かもしれないが、それはどちらでもかまわない。
「日本の君主とはだれなのか」、「その君主は徳をもっているのか」、
「もし、徳をもっていなかったらどうなるのか」。
それに対し沢彦がどう答えたかは、これも分からない。
ただ、現状の説明は行ったであろう。
天皇のこと、幕府のこと、各地の守護大名のこと。公家のこと、寺社のこと。
信長と、沢彦との会話は一日で終わったはずはない。
事情が許す限り、沢彦は那古野城に滞在した。
いったん美濃に帰り、またやってきた。
一年かかったか、あるいは二年かかったか、信長は沢彦の思想を吸収した。
ただし、思想というものは吸収するときは言葉の断片一つ、一つとして入ってくる。
それらは頭の中で再構築されなければ、信長の思想とはならない。  
信長はまだ「現実」というものに直面しておらず、再構築に当たって、
「現実」が思想をたわめることはない。
こうして、理想主義者の信長が誕生したのである。
理想主義の目で世の中を見てみれば、何と矛盾の多いことか。
信長はまだ政務を執ることはない。暇はあり余っている。
師の教えに従って、領民たちと話しただろう。
そのときは、格式ばった身なりは邪魔になる。
領主の後継者とは思えないかっこうで町を歩き、観察し、会話する。
現実を知れば知るほど、矛盾の多いことに気がつく。
ただ、信長が見たと思ったものは現実の真の姿ではない。
信長、十三歳。見た目の現実の裏にある歴史の積み重ねを知らない。
その重みを実感していない。
それでも、いや、それだからこそというべきだろう、信長は決意する。
「この矛盾を自分が解決する。そして、新しい世の中をつくる」と。

天文二十年(一五五一)三月三日、父信秀は急な病で死亡した。
家督をだれが継ぐかについての公式の発表は行われずじまいだった、
とわたしは推察している。
信長は十八歳にして、現実と直面したのである。

鈴木銀


第1章をとにかく書き上げました。
まだまだ手を入れなければ、とも感じていますので、
ご意見、ご感想をお聞かせください。
みなさんは、わたしのモニターです。

鈴木銀


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