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[参考] 信長 第3章 【信長の守護神はスサノオと牛頭天王】 鈴木銀一郎

鈴木銀一郎先生が、BBS「金羊亭」で、
織田信長の研究に関する記事を掲載していますので、ご案内します。


信長 第3章 信長の守護神はスサノオと牛頭天王 (2009年8月23日)

〔スサノオは戦神〕

スサノオノミコトというと、日本神話の成り立ちに興味がない人は
『古事記』に描かれた姿しか思い浮かばないだろう。
天照大神の弟で、高天原での乱暴な行為が、「岩戸隠れ」の原因となったこと。
その結果、高天原を追放され、出雲の国でヤマタノオロチを退治したことである。
しかし、多くの学者が指摘しているのは、記紀神話は祖母から孫への譲位、
つまり、持統天皇から、孫の文武天王への譲位を正当化するために
つくられたということである。
持統天皇は、夫である天武天皇の血筋に皇位を譲るのを拒否しつづけ、
ついに孫の文武天皇に譲位した。
記紀の伝えるところでは、天武は天智天皇の異父弟であり、
その父とは皇族であるということ記述になっている。
しかし、実は皇族ではなく、新羅から渡来した有力者であったという説があり、
わたしもそれを信じている。
井沢元彦氏の『逆説の日本史2古代怨霊編』は、
さらに、天武は天智の異母弟ではなく、異父兄であり、天智の死は病死ではなく、
天武による暗殺であったという説を展開している。
当時、天智は唐と軍事同盟を結ぼうとしていた。
もし同盟が成立すれば、新羅の存続は危うくなる。
新羅派であった天武は、何としても同盟を阻止するため、
天智を暗殺したというのである。
森鴎外は、その晩年期に天皇の諡号について研究した。
それによると、天智というのは殷の紂王が身につけて自殺したという「天智玉」
からきているという。
そして、天武の「武」は紂王を討った周の武王から出ているという。
二人の諡号を決めた人物は、言外に天武が天智を討ったといっているのである。
そういう事情なら、持統天皇が、
天武の血筋に皇位を譲ろうとしなかったのも納得できるではないか。
(この話は非常に興味を引くのだが、信長とは直接関係ないので、
これ以上ふれるのは止めておく)

記紀神話は世界で唯一、最高神が女神の神話である。
その理由が、祖母から孫への皇位継承を権威づける神話の
改ざんにあったというなら納得できる。
そのために、スサノオはアマテラスの弟として下の位置に置かれ、
罪人としての扱いを受けることになった。

イザナギ・イザナミが最初に産んだ子、ヒルコノミコトが
「日の男神」だったという説がある。
アマテラスの別名に「おおヒルメのむちのかみ」がある。
記紀神話の神々は対で産まれてくるのが普通である。
「ヒルコ」と「ヒルメ」は日の男神、日の女神として対で産まれた。
ところがヒルメが最高神になったため、ヒルコを処分しなくてはならなくなった。
そこで、骨がない蛭のような子として、海に流してしまったというのである。
ヒルコ(蛭子)は後に商売繁盛の神「恵比寿様」として祀られるようになる。

記紀神話のスサノオノミコトは真実の姿ではない。
代わって浮かび上がるのは、国土の開拓者、建設者、
そして統治者としての国津神スサノオの姿である。
その国津神は、朝鮮の新羅と関係が深いとされる。
もう一つ、だれも言及していないのが、戦の神として崇敬されたスサノオである。

大同五年(八一〇)正月、嵯峨天皇は津島神社に対し、
「素尊は即ち皇国の本主なり、故に日本の総社と崇め給いしなり」と称して
「日本総社」の号を奉った。
この年には記紀はすでに完成して、スサノオはアマテラスの下に置かれている。
皇国の本主はアマテラスであり、日本総社は伊勢神宮でなければならない。
それなのに、スサノオを本主と称えたのは、
いかにスサノオが偉大な王であったかを示すものといえよう。
この大同五年という年は、「薬子の変」が起こった年である。
薬子の変とは、嵯峨天皇と平城上皇との対立によって九月に起こったものだが、
前年末にはその兆しが見えていた。
上皇は藤原薬子の兄藤原仲成らを派遣して平城宮を造営させ、
十二月にはそこに居を移した。
上皇はその地で、天皇に代わって政治を行うつもりであったのだ。
嵯峨天皇は「変」が起こることを予期し、正月にスサノオを日本の本主と称え、
来るべき戦いの勝利を祈願したのであろう。

そう推察すのは、同じようなケースが前にあるからである。
壬申の乱において、大海人皇子(後の天武天皇)は、
美濃の不破の仮宮に進出したとき、自らスサノオノミコトと、
十拳剣を祀り、戦勝を祈願した。それが岐阜県七相町にある神渕神社である。
嵯峨天皇は、壬申の乱で勝利した大海人皇子の前例にならい、
スサノオノミコトに祈願したのである。
また、ヤマトタケルも危地に陥るたびに、助けをスサノオに求めて祈っている。
そのほか、仲哀天王の皇子忍熊王(剣神社の副神)がスサノオの神助によって
賊徒を退治したとか、赤松則村がスサノオに戦勝を祈願し、
六波羅軍を破ったとかいう伝えも残っている。
このように、スサノオは武将の戦勝祈願の対象でもあった。
そして、その淵源は天武天皇と、嵯峨天皇の故事にあったのである。
信長は知識欲旺盛である。
織田家の祖神ともいうべきスサノオノミコトについては調べたことであろう。
当然、そのことも知っていたはずである。
そのスサノオと、牛頭天王とは習合して一体化している。
信長が怒りを感じるたびに、
牛頭天王の憤怒の相をイメージするようになったとしても不思議ではない。
むしろ、意識してそうしただろう。
それによって、自分の怒りを昇華させ、そのエネルギーを増幅する。
さらには、怒りの場において、
信長は牛頭天王と一体化した感覚を得るようになっていく。
そのとき、信長自身の形相は、牛頭天王の「憤怒の相」になる。
稲生の戦いにおいて柴田勝家を臆させたとき、信長の形相はそうであったに違いない。
仏像として造形された「相」よりもさらに凄まじい、
人間がとりうる究極の「憤怒の相」であった。
勝家はその相に臆し、圧倒され、気がつくと逃げ出していたのである。

鈴木銀


〔理想と現実との乖離〕

 江戸時代の大名と家臣は、はっきりした主従関係にあった。
家臣は主家を離れたら生きていけないからである。
しかし、戦国時代においては、大名と家臣との関係は、一種の契約でしかなかった。
大名は、家臣にその所領の排他的支配権を保証する。その代わり、戦になれば、
家臣はその所領に見合った数の兵士を率い、大名のもとに馳せ参じるのである。
大名にその器量がないと思えば、家臣は簡単に仕える相手を変えた。
現代の目から見れば裏切りであるが、当時にしてみればごく当たり前の行為であり、
道義的に非難されることはなかった。
多くの所領をもつ有力国人が、その大名の重臣となり、
重要な案件は重臣たちに諮らなければならない。
つまり、戦国大名は有力国人たちがかつぐ神輿の上に乗っているのに等しかった。
担ぎ手たちが合意しなければ、進行方向を変えることができなかったのである。
武田信玄然り、上杉謙信然り、徳川家康も然りだった。
しかし、信長の理想は違っていた。
家臣に与えるのは所領ではなく、俸禄である。
つまり、「○○の庄を与える」のではなく、「銭○○貫の俸禄を遣わす」のである。
領地の支配権はあくまでも主君である信長の手にあり、
税制、禁令などは領国内で統一的に施行される。たとえ城主になっても、
その城に居住し、その維持に当たるというだけで、
周辺の田畑は全て主君が統治するわけである。
この制度のメリットは、主君が、家臣団を一つの組織として運営できること、
家臣を自由に配置換えできること、兵士を常備兵にできることが挙げられる。
主君のメリットは、家臣のデメリットになることが多い。
先祖伝来の所領をもっている代々の家臣にとっては、
その支配権を手放すことは許しがたいことであったろう。
信長も、旧来の家臣について、そういうことはしていない。
また、そういう理想を公表したという記録もない。
しかし、ふだんの言動や、新しい家臣に対しての俸禄制を見れば、
信長がどんなことを考えているかは察することができたのではないか。
家督を継いだとき、信長神輿を担ごうとする家臣はだれもいなかった。
前章で述べた信勝・林兄弟の裏切りの際、信長は自分の手勢だけで戦っている。
どう考えても、これは異常なことである。
普通なら、主君が「裏切りだ」と叫べば、
合力に駆けつける家臣はいくらでも現れるはずではないか。
それが、だれもいなかったとは・・・。
『信長公記』は記す。

「敵に攻められ、身内には背かれ、信長は孤立していた。
しかし、たびたび手柄を立てている屈強の侍衆が七、八百人もそろっているので、
合戦で一度も敗れたことはなかった」

鈴木銀


〔スサノオの啓示〕

十八歳で家督を継いでから、信長の日々は、「現実」との闘いの連続となった。
親族、重臣、国人衆。信長の理想から見れば、みんな敵であった。
その他に、尾張に蝕手を伸ばしていた今川義元がいた。
まず、それらの敵に勝たなくては「理想」も何もない。
普通の人間なら、妥協に次ぐ妥協で、まず身の安全を図ることだろう。
他の戦国大名もみなそうした。国人たちの要求に応え、主君としての地位を確保した。
しかし、理想主義者である青年信長はいっさい妥協しなかった。
自分の知恵と、自分が育てた親衛隊を信じて戦い続けたのである。
戦闘には勝ち続けたかもしれない。
しかし、苦悩の日々であったことは間違いない。
どうやったら自分の理想を実現できるのか。それを考え、迷い、悩んでいたとき、
ある夜、スサノオが牛頭天王の姿で信長の夢枕に立った。
こう書くと、拒否反応を起こす人が多いかもしれない。
われわれ現代の日本人は、「啓示」を与えるもの、
つまり「神」というものは存在しないと思い込んでいる。
存在しないものは、何かを与えることはできない。
だから、「啓示」が学術書に現れることはない。
しかし、歴史を見てみれば、「啓示を受けた者」は大勢いるのである。
つまり、「啓示」とは、与える存在の有無ではなく、受ける側の心の問題なのだ。
ましてや、わたしは「信長が荒野に一人いたとき、
まぶしいばかりの光とともに牛頭天王が姿を現した」
というような大仰なことをいっているわけではない。
夢を見たという、ごく自然なことをいっているにすぎない。
夢は、無意識における精神活動の現れである。

ミシンの発明者のシンガーには、夢にまつわるこんなエピソードが伝えられている。
シンガーはミシンの発明に取り組んでいた。
もう少しのところまで来ているのだが、後一つの問題点が残っていて、
毎日試行錯誤を繰り返していた。ある夜、彼は蛮族に捕らえられ、
柱に縛りつけられた夢を見る。
蛮族たちはどうやらシンガーを処刑しようとしているらしい。
槍を持った戦士たちがシンガーを取り囲む。
そのとき、シンガーは戦士たちが持つ槍の穂先を見て驚く。
どの穂先にも、丸い穴が開いていたのだ。
シンガーは「それだっ」と叫んで飛び起きた。
ミシンの針の先に穴を開け、そこに糸を通す。
それで、最後に残された問題を解決したのである。

信長も問題意識をもって悩んでいた。
だから、牛頭天王が夢に現れたにしても不思議はない。
おそらく、信長の夢には、
しばしば牛頭天王が現れていたのではないかと想像している。
夢枕に立った牛頭天王がどういったのかは想像するしかない。
たぶん、牛頭天王=スサノオは信長に天下を統一し、
理想を実現せよという使命を与え、加護を約束したのであろう。
そして、最後に草薙剣を与えて、こういう。
「汝に逆らう者どもを、この剣で切り従えよ」
草薙剣はスサノオがヤマタノオロチを退治したときにその尾の中から得た剣である。
その後、ヤマトタケルが東征の際に与えられ、
駿河の草原で火攻めにあったときこの剣で草を薙ぎ、難を逃れた。
熱田神宮は、この剣を祀るために建てられたものである。
信長は、はっとして目を覚まし、夢であったことに気づく。
しかし、その手には剣を握ったときの感触がまざまざと残っていた。
当時は神仏が夢枕に立つことはしばしばあり、不思議でも何でもなかった。
精神分析なんてこともない時代だ。夢はそのまま信じられた。
もちろん、資料は何もない。しかし、論拠はある。
それが第一章で述べた「危地に飛び込む行動パターン」である。
どう考えても、一時期の信長には危険を無視した行動が多い。
それは何かの「啓示」を受けてそれを信じきっていたか、
あるいは、「啓示」が真実であるかどうか、それを試していたとしか、
わたしには考えられない。
もちろん、それを否定するのは自由である。
ただし、絶対にそんなことはないと主張するのだったら、
逆に、その論拠を示していただきたい。
信長がスサノオ=牛頭天王から啓示を受けなかったとする資料もまたないのである。
『信長公記』には次のような記述がある。

鈴木銀


〔火起請を取る〕

火起請とは、昔の裁判の判定に用いられた方法の一つである。
真っ赤に焼いた鉄を握らせ、持てるか否かで有罪・無罪を決するものである。
この事件がいつ起きたかは明記されていないが、
『信長公記』の首巻に記載されているので、
信長が家督を継いでから数年ほどの間のことであると思われる。

「尾張の国海東郡大屋の里に、織田造酒丞の家来で甚兵衛という者がいた。
隣村の一色という所には左介という者がいて、二人はかくべつ親しい間柄だった。
十二月中旬のこと、大屋の甚兵衛は、年貢納入のため清洲に行っていた。
その留守の間に、一色村の左介が甚兵衛の家に夜盗に入った。
甚兵衛の女房は起き上がって左介にしがみつき、その刀の鞘を取り上げた。
そのことを清洲に申し出て、裁判となり、双方が守護に言い分を申し立てた。
一色村の左介は、信長の乳兄弟で当時権勢のあった池田恒興の被官であった。
裁判は火起請で決することになり、山王社の神前に奉行衆が出座し、
双方からも検使役が出た。天道には逆らえず、左介は火起請に失敗した。
しかし、池田恒興の家来衆は権威におごっていたので、左介をかばい、
成敗させまいとした。
そこへ鷹狩りの帰りの信長が立ち寄って、この騒ぎを見ていった。
『こんなに大勢の人間が弓、槍、刀を手にして集まっているのは、どうしたのだ』
双方の言い分を聞いている途中で、信長の顔色が変わる。
『どのくらい鉄を焼いて取らせたのか、やったように焼いてみよ。俺がよく見てやる』
鉄を赤くなるまで焼き、このようにして取らせましたと答えると、信長はいった。
『俺が火起請をしっかり請けたら、左介を成敗する。よいな』
信長は焼いた手斧を手に取ると、三歩歩いて棚に置いた。
『しかと見たな』
そういうと、左介を誅殺させた。
信長の形相はまことに凄まじいものであった。」

ここには全くの自信をもっている信長の姿がある。
失敗する可能性などは頭のどんな片隅にもなかったろう。
自分には特別な力があると信じこんでいなかったら、こんな行為に及んだであろうか。
もう一つは憤怒の形相である。柴田勝家を臆させたときもそうだが、
信長は憤怒の相をとるとき、
自身の中に牛頭天王の力がみなぎってくるのを感じていたに違いない。
信長が火傷をしたかどうかは、記述がない。
手に火傷の跡があったとする資料もない。
しかし、信長の体内にはアドレナリンその他の、
われわれがまだ知らないホルモンが大量に駆け巡っていたことであろう。
そのため、信長は火傷ひとつ負わなかった。
もちろん、これはわたしの願望である。
 あるいは、こう反論する人がいるかもしれない。
そんな超自然的な出来事は信じられない。
だから、その話は太田牛一のでっち上げに違いない。
しかし、牛一はなぜそんな話を作り上げたのだろうか。
牛一が、信長をかばうために、何かを書かなかったということはある。
また、わざと順番を入れ替えたということもある。
しかし、火起請の話を書いたからといって、
信長の評判が特に上がるということはない。
また、書かなかったからといって、評判が落ちることもない。
それなら、やっぱり火起請は実際にあったことであったと、わたしは信じている。

鈴木銀


〔僧無辺を調べる〕

天正八年(一五八〇)三月の出来事として、こういう記述がある。

「無辺という諸国行脚の僧が、石馬寺の栄螺坊のところにしばらくの間滞在していたが、
次々と奇特不思議な行いをするという噂が立った。
人々はそれぞれ身分に応じた志を無辺に捧げ、
「丑の刻の秘法」を授かろうと、昼夜を分かたず、男も女も集まってきて、
門前を立ち去らなかった。
信長は、無辺のことをいろいろと聞き、その男に会ってみいたいといった。
そこで、栄螺坊が無辺を連れて安土山にやって来た。
信長は厩まで出向き、無辺をじっくり観察して、思案しているようであった。
信長が問う。
「お前の生国はどこだ」
「無辺(どこでもない)でござる」
「では、唐人か、それともインド人か」
「修行者でござる」
「人の生国は、日本、唐、インド以外はない。さては、お前は化け物だな。
そうならば火であぶってやろう」
そういって、火の用意をせよと命じた。
無辺はその一言で追い詰められ、答えた。
「実は、出羽の羽黒の者でございます」
無辺はただの売僧に過ぎなかった。
「生まれた所も、住む所もなく、
ただ仏法を広めたいという心があるだけ」と言いふらし、
どんな物をもらおうが自分の物にせず、宿にした者に差し出してしまう。
いかにも無欲に見えるが、何度もその宿に戻っては泊めてもらうので、
実は無欲ではない。
ただ、信長は「奇特な行いをする」と聞いていたので、
「その奇特とやらを見せよ、見せよ」と命じた。
しかし、何の奇特も示すことはなかった。
「もともと、奇特不思議な行いをする者は、顔かたちから、目つきまで常人とは違う。
人品も人にすぐれて尊いものでなくてはならない。
お前のいやしさは樵より劣るものだ。
女子どもをたぶらかし、国の者どもに無駄な金を使わせたことは許せん」
信長はそういうと、家臣に命令した。
「この上は、この無辺という男に辱めを与えてやれ」
無辺は、俗家の頭のところどころをそり落とされ、裸にされて縄をかけられ、
町中をさらし者にされた上、追放された。」

いそがしい信長がなぜ無辺のような僧に会ってみようとしたのか。
神秘的なことは起こりえないとう信じていたので、追求したのだという解釈が多い。
しかし、自分以外にも特別な力をもつ人間がいるのか、
確認したかったのだと考える方が自然ではないだろうか。
火あぶりにするといわれ言葉を変えたあたりで、正体は見えている。
それなのに「奇特を見せよ」とさらに迫ったのは、そのためであろう。
「奇特不思議を行う者は顔かたちや、目つきまで常人とは違う」といったのは、
自分のことを意識していたに違いない。
そう考えると何となく愉快になるではないか。
もう一つ、これはスサノオとは関係ないが、見えてくることがある。
それは、信長のもとには不思議な僧という一見政治とは関係ないことまで
情報として上がってくるということである。
この事件は天下統一のめどもついたころに起こっている。
そんな時期においても、信長は小さな事柄まで自分一人で決済しているのである。
もともと「疲れを知らない勤勉さ」が信長の基調のひとつではあった。
しかし、これでは働きすぎではないのか。中年になっても、
信長は心労というものを感じなかったのであろうか。
無辺についても、後日談として次の記述がある。

「その後、信長がよく聞いてみると、「丑の刻の秘法」を伝授するといって、
不妊の女や、病気の女に、「へそくらべ」とかいうことを行っていたことが判明した。
信長は、これから先のこともあるといって、領国全てと、
各国主に命じて追っ手を出し、召し捕らえ、罪を糾明した上で、無辺を処刑した」

鈴木銀


わたしとしては結構重要な章なので、相変わらずご意見・ご感想をお待ちしています。
ぶっちゃけていえば、つまり、信長の啓示を信じるか、信じないかということです。
次は、信長のTPOからの考察の予定です。

鈴木銀



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