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[参考] 信長 第5章 【通説桶狭間の戦い】 鈴木銀一郎

鈴木銀一郎先生が、BBS「金羊亭」で、
織田信長の研究に関する記事を掲載していますので、ご案内します。


信長 第5章 通説桶狭間の戦い (2009年8月25日)

〔予定戦場における兵力の優勢〕

信長は村木砦を攻略したとき、すぐ報復があるものと覚悟していた。
やられたらやりかえす、というのが今川方のやり方だったからだ。
しかし、今川方に敏速な反応はなかった。
その後も、積極的な攻勢は見られない。今川軍の総帥ともいうべき太原雪斎が
「村木攻め」の翌年死亡したのが、大きく影響したのであろう。
雪斎に代わっては、義元が軍を指揮することになるが、
それに伴って体制も変えなくてはならない。
義元は、家督を長子氏真に譲り、駿河・遠江の統治を委ねている。
自身は、三河に常駐し、尾張への侵攻の指揮をとるつもりであろう。
「次は、義元による本格的な侵攻になる」
そう信長は信じていた。
信長の最大動員力は七千から八千。
ただし、全てを戦場に投入できるわけでない。
美濃の斉藤義龍への備えが必要だし、国内各地の城にも守兵を置かなければならない。
せいぜい三千から五千というところだろう。
それに対して義元の動員数は三万近い。
尾張侵攻に投入できるのは二万から二万五千である。
五千と二万五千が平滑地で戦ったら、万に一つも勝ち目はない。
そういう戦いに持ち込ませないためにはどうしたらよいか。
信長が打った手は、知多半島の北部にまで進出した鳴海城と、
大高城に対し付け城を築くことであった。

「鳴海城は、南は黒末川(天白川)の河口で入海につながり、
潮の満ち引きが城の下まで及んでいる。
東は谷続きで、西は深田である。
北から東は山が続いている。
信長は、城から二十町離れて丹下という古屋敷があるのを砦に構え、
水野帯刀、山口海老丞ほかを配置した。
東には善照寺という旧跡がある。要害の地であり、
佐久間右衛門尉信盛、弟左京助を配置。
南中島という小村があるのを砦にして、梶川平左衛門を配置した。
黒末の入海の対岸に、鳴海・大高の連絡を絶つように、
砦を二つつくり、丸根山に佐久間大学を配置し、
鷲津山には織田玄蕃、飯尾近江守親子を配置した。」

当時、敵の城砦の活動を制約するために、
その近くに付け城という拠点を構築するのは一つの常識であった。
ただ、大高城の付け城には特別な意味があった。
それは、大高城の補給路を断つということである。
大高城の兵糧が不足すれば、兵糧運び込みのための援軍を送らなくてはならない。
それが本格的な侵攻のときと重なれば、兵力の分散につながることになるであろう。
さらに、大高城は尾張領に深く入り込んでいるので、
そこへ一部隊を割くことは、その後備も考えなければならず、
戦線が伸びて、側面攻撃に弱くなる。
(鳴海城はその下まで潮が満ちるので、
水軍をもつ今川勢に対して補給路を絶つ作戦は無意味であった)
信長が狙ったのは、正にその一点だったのである。
将軍が勝つために考えなければならないのは、
まず「予定戦場における兵力の優勢」である。
つまり、戦場がどこになるかを予測し、戦いが始まる時点までに、
そこに相手より優勢な兵力を送り込むということである。
あるいは、もっと積極的に、戦いの場を相手に強要し、
そこでの優勢を確保するという作戦もある。
ここでいう「兵力」とは、単に兵の数ということではない。
武器、士気、練度、下級指揮官の能力などを総合した戦力のことである。
信長が指揮する親衛隊は今では二千近くに達している。
練度や、士気の低い五千人の農民兵なら、粉砕できるだけの力があると、
信長は自信をもっていた。
その戦力を伸びきった敵の戦線の薄いところにぶつけ、その敵を敗走させる。
兵というものは、後続の部隊が敗走したことを知ると、
退路を絶たれると思い、士気が低下する。
場合によってはいっせいに退却を始めることさえある。
信長は義元を討ち取れるとは思っていなかった。
ただ、長く伸びた敵の戦線のどこかを食いちぎれば、勝負になると思っていた。
つまり、相手は撤退を始め、戦いを勝負なしに持ち込めると考えていたのである。
そして、自分が育てた親衛隊なら一部分を食いちぎれると信じていた。
今川義元も、当然、「予定戦場における兵力の優勢」という原則は知っていただろう。
太原雪斎の基本的な戦術がそうだからである。
しかし、義元には前線指揮官としての経験が不足していた。
そのため、「予定戦場」の真の意味を知らない。
「戦いの中心」が移動する可能性に思いが至っていない。
そこで、戦場全体の数の優勢で満足していたのである。
 義元が取るべきであった作戦は、二万五千の兵が展開できる平滑地を選び、
ゆるゆるとでもいいから連携を保って進撃することであった。
そうすれば、信長は手も足も出ずに敗れ去ったことだろう。
大高城がいくら兵糧不足を訴えても、二日や、三日待たせておけばよかったのである。
いざ戦いが始まれば、「予定戦場」はなくなり、代わって「戦いの中心」が発生する。
将軍、または前線指揮官は、常に戦いの様相を把握し、
戦いの中心に戦力を投入して「兵力の優勢」を保持し続けなければならない。
戦いは常に変化する。その変化に対応できなければ、
たちまち遊軍が生じ、二万五千はあっという間に五千になり、
千になってしまうのである。
以下、その視点で桶狭間の戦いを検証してみよう。

鈴木銀


〔合戦前日まで〕

永禄三年(一五六〇)五月十二日、
今川義元は二万五千の兵を率いて駿府(静岡市)を出陣した。
かつては、義元の目的は上洛し、天下に号令を発するためとされたが、
現在では、そんな説を唱える人はいない。
今川軍の主力は依然として農民兵である。
京にいつまでも居座っているわけにはいかないのである。
ただし、今川としては久しぶりの軍事行動であり、
義元にしてみれば充分すぎるほど準備した上での出陣であったと思われる。
それは、陸戦が主である戦いなのに、
津島西南のうぐい浦の服部水軍をわざわざ呼び寄せてもいることでも分かる。
織田家のお膝元の津島のすぐ近くの水軍が今川方についたことだけでも、
義元の勢威を感じることができる。
侵攻の主目的は具体的には分からないが、
かなり大きな構想をもっていたことであろう。
五月十七日、義元は沓掛城(豊明市)に入り、諸将を集めて命令を下した。
大高城への兵糧入れは、その付け城である鷲津・丸根の両砦の攻撃とともに、
侵攻の初期目的に決まった。
つまり、ここまでは信長の描いた設計図の通りになったのである。
しかし、それを信長はまだ知らない。
十八日夕刻、鷲津・丸根両砦から、翌朝の攻撃は必至という報せが入るが、
それでも動かない。

「その夜の話にも軍議については全く出なかった。
いろいろな世間話のあと、信長は『もう夜も更けたので、みんなも帰るがいい』
といった。
家老衆は、『運が傾くときは知恵の鏡も曇るというが、全くその通りだ』
とそれぞれに信長をけなしながら帰宅した。」

信長にしては、まだ動くわけにはいかなかった。
どうやら狙い通り鷲津・丸根を攻撃してくるようだが、戦いというのは、
どう動くか分からない。早まって出動すれば、それが敵に知れ、
作戦を変更される可能性があるからだ。
(前年の上洛が斉藤方に筒抜けになっていたことを思い出していただきたい)
また、家臣たちに自分の作戦を示すこともできない。
あまりにも未定の要素が多いからである。
信長の作戦は、敵に鷲津・丸根に攻撃させ、
戦力を分散させることが前提になっている。
その上で、敵の側面のどこかを衝くというものである。
そのどこかは、前線に出てみなければ分からない。
側面のどこかを衝いて、その結果どうなるかも分からない。
家臣にしてみれば、そんなに分からないことだらけでは、
とても作戦とは認めないだろう。
さらに、信長の作戦では、
鷲津・丸根の両砦は敵の大部隊を引きつけるための囮である。
そんなことを、たくさんの家臣の前ではっきりいうわけにはいかないではないか。
指揮官の資質の一つに、部下の損害にどのくらい耐えられるかということがある。
特に、司令部との連絡が途絶え、全ての権限と責任が委ねられたようなとき、
この資質が重要になってくる。戦死者の一人一人に心が痛み、
苦しむ負傷者のうめきは胸を刺す。
そんなとき、耐えられない指揮官は早めに降伏や、撤退をしてしまうのだ。
信長は、(部下の死に涙を流すかもしれないが)耐えられる指揮官であったと、
わたしは考えている。鷲津・丸根の両砦は、あえて見殺しにしたと想像する。

その夜、松平元康(家康)は、大高城への兵糧入れに成功する。
翌十九日夜明け方、鷲津・丸根砦からの急使によって、
敵が両砦への攻撃を開始したという報せが入る。
これで、敵の作戦変更はなくなった。
次は、「予定戦場」への速やかな進出である。
このとき、信長は幸若舞『敦盛』を口ずさみながら舞う。

「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり
ひと度生を受けて、滅せぬ者のあるべきか」

舞い終わると、信長は叫ぶ。

「『ほら貝を吹け。具足を持て』
物の具をつけ、立ったまま湯漬けを食らい、鎧を着用し、馬に乗る。
このとき、つき従ったのは前田利家の弟である佐脇良之ほかの小姓衆五騎のみ。
主従六騎は熱田まで三里を一刻で駆けた。」

鈴木銀


〔予定戦場の決定〕

「午前八時前、熱田神宮の源太夫宮の前から東を見ると、
鷲津・丸根両砦が落ちたとみえて煙が上がっている。
このとき、雑兵二百人が追いついていた。」

『信長公記』にはないが、信長は熱田神宮に戦勝祈願を行っている。
『甫庵信長記』には、その願文が載っているが、なかなかの名文である。
願文にはヤマトタケルの名はあるが、スサノオの名はない。
しかし、信長は心を込めてスサノオに祈ったことだろう。

「熱田から海岸沿いに進もうとしたが、潮が満ちていて馬が通れない。
そこで山手側の細い道をひしめき合いながら駆け、まず、丹下砦に出た。
次いで、佐久間信盛が布陣していた善照寺砦に進み、
そこで兵がそろうのを待ち、敵状を観察した。
敵、今川義元は四万五千の兵を率い、桶狭間山で人馬の息を休めていた。」

昔は田楽狭間という窪地に布陣していたという説が一般的だったが、
現在では『信長公記』の通りに桶狭間山に布陣していたとされる。
ただし、このあたりは低い丘陵地帯で、
「桶狭間山」を特定するのはむずかしいらしい。
桶狭間の近くにある丘の一つが桶狭間山だったのであろう。
四万五千というのは明らかに多すぎる。
これは義元出陣の際の公式発表をそのまま記載したのであろう。
義元が率いたのは二万五千という説が最も多い。
そのうちのかなりの人数が鷲津・丸根の攻撃に振り向けられ、
本隊の後備、兵站部隊などを考えれば、本陣近くは五千人程度であろう。
ただ、義元軍の細かい配置についての資料はない。

「正午ごろ、義元は北西に向かって部隊を配置した。」

桶狭間山から北西の方向二・五キロメートルほどのところに中島砦があり、
見晴らしのきく場所からはよく見える。
その間は浅い谷あいである。
北西に向かって配置した部隊というのは、この中島砦に備えたものであろう。
藤本正行氏は『信長の戦争』で、この部隊に「前軍」という名称を与えている。
以後、この部隊(今川本隊の前方で織田軍に備えた部隊)を前軍と呼ぶ本が多いので、
ここでもそうしておく。
原文では「人数を備え」とあるので、前軍は攻撃部隊ではなく、
本陣防御のためのものだと分かる。
そうだとすれば、斜面に配置したのであろう。
戦いは、高みにいた方が有利というのが常識だからだ。

「このとき、義元は、鷲津・丸根を攻め落としたので満足はこの上ないといって、
謡いを三番謡ったという。」

義元が戦陣に出て指揮をとるのは十年ぶり以上のことである。
戦場勘というものがあるとするなら、義元のそれは錆びついていたに違いない。
鷲津・丸根は今回の侵攻の初期目的にすぎない。
織田軍の主力とはまだ交戦もしていない段階である。
そういう状況で主将が満足しては、部下に緊張感を失わせ、
油断させることになるからだ。

「信長が善照寺砦に来たのを見て、
佐々隼人正、千秋四郎の二人が率いる三百人あまりが義元勢に向かって突進した。
敵もどっとかかってきて、
その槍下で千秋四郎、佐々隼人正ほか五十人ばかりが討ち死にした。
義元はそれを見て、わが矛先には天魔鬼神も耐えられまい、
いい心地であると喜び、すっかりくつろいだ感じで謡を謡い、
陣を動かす気配はなかった。」

この突進が陽動作戦なのか、抜け駆けなのかは意見が分かれている。
桶狭間の勝利が奇襲であるなら抜け駆けに違いないが、今は強襲とされている。
強襲であるなら、抜け駆けとするには少し躊躇する。
善照寺砦まで来たが、信長は、どこを攻撃すべきなのかまだ判断がつきかねている。
中島砦に進出して、そこから攻撃を開始すべきか。
それとも、さらに東に進むべきか。
(それは、かつて陸軍参謀本部が考えた信長の進軍ルートである)
谷を隔てた南東の斜面には敵がいるようだが、
どのくらいの数がいるのか分からない。
そこで、人数がほぼそろうのを待って、「信長ここにあり」という旗印を立てる。
その旗印を見て、三百人の兵が突進したというのである。
三百人という兵は一つの戦力である。
抜け駆け説が正しいなら、
それが信長の命令によらず集合していたということ自体が疑わしい。
しかも、信長の作戦というものは、まだだれも知らない。
善照寺に進出するかどうか、それすら事前には分かっていない。
それなのに、どうしてそこに三百人もの兵がいたのか。
その兵は中島砦にいたと考えるのが、最も自然であろう。
中島砦から突撃してきた敵を見て、その人数が少なかったので前軍が迎撃した。
戦いは圧勝で、「義元はそれを見て」、
織田の反撃とはこんな程度かと侮ったことだろう。
この後、佐々・千秋隊の生き残りが敵の首を持って信長の前に現れるのだが、
その中に前田犬千代(利家)がいた。
利家は信長の小姓であり、男色関係もあったとされている。
二年前、拾阿弥という同朋衆を斬殺し、信長に勘当されていた。
手柄を立て、信長に帰参を願うため、とりあえず最前線で待っていたのであろう。
いうまでもないことだが、「抜け駆け」はどの大名の軍律でも御法度である。
まして、信長軍ではそれが厳しく運用されていたであろう。
軍律違反の抜け駆けに参加して、
それで帰参が叶うとは、利家も考えなかったであろう。
どうも理解しにくい突撃なのである。
結局、前田利家の帰参は叶わなかった。
翌年、斉藤氏との戦いで「頸取り足立」と呼ばれる豪の者を討ち取って、
やっと許されたのである。

「信長は戦いの様子を見て、中島砦へ移動すると命令を下した。
家老たちは、『中島への道は深田の中で、一人ずつしか通れません。
敵からは丸見えで、こちらが少数なのが分かってしまいます。
何の得にもなりません』と、馬の轡の引き手にすがって、
口々にとめたが、それを振り切って中島へ移動した。
そして、中島からの攻撃を命令した。」

信長は前軍の人数を見て、これなら破れると判断し、
ここを「戦場の中心」にすることに決めた。
不思議なのは、義元には、初期目的を達した後の第二次作戦計画というものが
なかったように思われることである。
鷲津・丸根の攻撃部隊が第二次の作戦行動を起こしたという形跡はない。
鷲津・丸根の攻撃部隊は、とりあえず今日の仕事は終わったということで、
のんびりしていたとしか思えないのである。
家康も、このとき大高で人馬を休めていた。
義元は暗愚の将ではない。
中島砦に対しても、朝のうちに物見(偵察)の兵を送っていただろう。
その報告を聞いて、ここが「戦いの中心」ではないと判断した。
その判断は正しかった。
善照寺から中島への兵の移動を見ても、
前軍に敗れた砦の兵への補充くらいにしか考えなかったろう。
今川軍は東西に長く伸び、とっさの命令が各部隊には届かない。
しかし、戦いの様相は一瞬で変わる。
信長が、ここを「戦いの中心」にすると決意したからである。
信長の攻撃命令を、家老たちは無理にでも止めようとする。
家老たちは、四万五千といわれる今川の数におびえているのである。
ここで信長は檄を飛ばす。

「みんな、よく聞くのだ。
あそこにいる敵は前の晩に兵糧をとったきりで、夜通し歩いて来た。
大高に兵糧を入れ、鷲津・丸根では手を焼き、疲れ果てている連中だ。
それに引きかえ、こちらは新手である。
『小軍にして大敵を恐れることなかれ、運は天にあり』という言葉を思い出せ。
いいか、敵がかかってきたら引け、退いたらそこに付け入れ。
そうすれば、敵をねじり倒し、敗走させるのはたやすい。
分捕りはするな。打ち捨てにせよ。
この戦に勝てば、参加していただけで家の面目であり、末代までの高名であるぞ。
ただただ、力を尽くして戦え。」

目の前の敵が鷲津・丸根の戦いに参加していないことは、
信長にも分かっていたはずだ。
士気を鼓舞するために、疲れ果てているぞ、といったのであろう。
しかし、親衛隊の兵士たちは、信長が例の大音声で自信たっぷりに語りかければ、
その気になる。
そこへ、先ほどの戦闘で首をとった武者たちがやって来た。
(その中に前田利家もいた)
信長はその者たちへも今いったことを伝えた。
そして、「戦いの中心」は動き始める。

鈴木銀


〔決戦〕

『信長公記』には、前軍との戦いについて記述がない。
そこで、激しい戦闘はなかったと推察する。
おそらく、中島砦から押し出してきたのが思ったより多勢であり、
しかも大量の鉄砲を撃ちかけながら向かってきたので、
あわてて本来の場所である桶狭間山の斜面に撤退したのであろう。
信長軍二千が山際まで進んだとき、突然、激しい雨が降ってきた。

「にわかな村雨である。斜面を登っていくと、敵の面には石氷のように打ちつける。
味方には追い風である。
沓掛峠の松の根元に、二かかえも、
三かかえもあろうかという楠木がこの風雨で東に向かって倒れた。
それを見た者は、あまりの出来事に、
熱田大明神も戦に加わっているに違いないといった。」

原文には、信長軍が斜面を登ったという記述はない。
そこで、雨の間は進撃を控えていたという解釈も多い。
しかし、「敵の面に打ちつける」とか、「味方には追い風である」という表現は、
味方の動きがあってこそ、ぴったりする。
そこで、信長軍は進撃を止めず、斜面を登っていったと解釈した。
敵は目も開いていられない状態である。
防戦しようとする者はたちまち突き伏せられただろう。
それを見て、逃げ出す者が続出する。
戦いというほどのことはなく、信長軍は登り続ける。
この豪雨の間、義元とその本陣にとって時間は停止していた。
大体、当時は大雨なら合戦はなしとしたものである。
豪雨となったので、多くの兵士は「やれやれ、これで今日の戦は終わったか」と思い、
近くの木陰で雨宿りしたことだろう。
前軍の兵たちが敗走してきても、だれも注意を払おうとしない。
主将がくつろいでしまったので、兵士たちから緊張感が失われていたのである。
その間にも、「戦いの中心」はどんどん近づいてきている。
それを、だれも気がついていない。いや、気がつこうとしない。
報告も入らない。命令も出せない。
義元の本陣五千、すでに孤軍である。
時間は信長方にだけ存在していた。
豪雨の間、信長軍は義元の本陣のすぐ近くまで進出する。
多少の小競り合いくらいはあっただろう。
戦なれしている信長の親衛隊は、敵陣近くなのを覚り、
すぐに攻撃態勢を組み、命令を待つ。
雨は降り始めと同じように、突然止んだ。
視界が回復すると、今川軍は敵がすぐそこにいるのを知った。
どうしてそんなことになっているのか、だれにも分からない。
ともかく、あわてて陣形をつくろうとする。
そのとき、すさまじい轟音が鳴り響いた。

「信長は槍を取り『すわ、かかれ、かかれ』と大音声で命じた。
鉄砲で一斉射撃し、突撃すると、敵はいっせいに崩れ、敗走した」

ここには大きな意訳がある。
原文は「黒煙立てて懸かるを見て、水をまくるが如く、
後ろへくはっと崩れたり」である。
「黒煙立てて」の「黒煙」とは何か。
豪雨が止んだ直後、煙が上がるのは不自然ではないか。
比喩的な表現なら「~が如く」と書くので、
あくまで視覚的に煙が上がったのであろう。
雨上がりなので、馬が立てる土煙とも思えない。
『甫庵信長記』を見ると、
そこでも、「真黒に黒煙を立て喚き叫んで馬を入れ」とある。
当時の人にはそれでよく分かったのであろう。
念のため『信長公記』を通読したら、
もう一か所だけ黒煙の立っているところがあった。
姉川の戦いである。
「散々に入りみだれ、黒煙立て、しのぎをけづり、鍔をわり」とある。
姉川の戦いは、狭い川をはさんでの戦いである。
何かに火を点けている暇はなかったであろう。
どう考えても、鉄砲の黒色火薬が上げる煙としか解釈できない。
信長軍といえども、強い雨の中での鉄砲の射撃はできない。
火縄の火が消えてしまうからである。
しかし、使用はできないが、火縄の火を保つ工夫はできていた。
それに対し、桶狭間の戦いのとき、今川軍にはまだ鉄砲の実戦配備はない。
あったにしても、大将格のところにお飾りのように置かれていたに過ぎなかった。
しかし、兵士たちは鉄砲という新兵器のことはよく聞いていた。
兵士というものは、じぶんたちが持っていない新兵器については、
過大評価する傾向がある。
弓の倍の射程距離をもち、具足も貫通してしまう威力がある。
すさまじい轟音とともに黒煙が上がる。
「やっ、鉄砲だ」と思った次の瞬間、敵が喚声を上げて突っ込んでくるのが目に入る。
恐怖にかられない方がおかしいというものだ。
かりにも、義元の本陣にいる兵である。弱兵ではなかったに違いない。
それがいっせいに崩れたのは、恐怖にかられたと思うしかない。
ここからは、追撃戦になる。

「弓、鎗、鉄砲、のぼり、指し物が散乱して捨てられている。
義元の塗り輿も捨てて敗走したのである。」

その塗り輿を見て、やっと、信長は義元の本陣を壊走させたのだと知る。

「『敵の旗本はここだ。ここへかかれ』と、信長は命じる。
午後二時のことである。東に逃げる義元の本陣に攻撃が開始された。
義元の旗本は初めは三百騎あまりが輪をつくり、
義元を中に囲んで退いていたが、二度三度、四度五度と繰り返し攻撃を続けるうちに、
しだいに数が減り、最後には五十騎ばかりになってしまった。
信長も馬を下り、若武者たちと先を争い、敵を突き伏せ、突き倒した。
血気にはやる若者たちも、負けじと乱れかかり、
しのぎを削り、鍔を割り、火花を散らし、火炎をふらす。
ただ、乱戦といっても(信長の親衛隊は赤備えなので)、敵味方は色で識別できた。
この戦いで、馬廻り、小姓衆に負傷者、死者が続出した。
服部小兵太は義元に打ちかかったが、膝口を斬られて倒れた。
毛利新介が、義元を切り伏せ、首を取った。」

毛利新介が義元を討ち取ったとき、義元は新介の人差し指に噛み付き、
その骨まで砕いたという。よほど無念であったに違いない。
実質的な戦いはこれで終わった。これからは掃討戦である。

「桶狭間というところは、土地が低く入りこんで、深田に足を取られ、
草木が高く低く茂って、この上ない難所である。
深田へ逃げ込んだ敵兵が、そこから出られずはいずり回っているところを、
若者たちが追いつき追いつき、二つ三つと、
てんでに首を取って信長の前にやってきた。
信長は、首実検は清洲にて行うと宣言し、
義元の首だけを見て満足した様子だった。」

信長は、馬の先に義元の首をつり下げ、もと来た道を帰る。
帰路は急いだので、陽のあるうちに清洲に到着した。
翌日の首実験では、その数三千に達したという。
義元の首は、生け捕りにした義元の同朋衆の一人に持たせ、
僧侶十人をつけて駿府に送り返した。
また、清洲から二キロメートルほど南の熱田に通じる街道に、
義元塚を築いて、大きな卒塔婆を立て、供養のため千部経を読ませたという。

桶狭間の戦いで、信長は確かに運に恵まれていた。
しかし、運だけの勝利ではなかった。
常備兵、長鑓、鉄砲というこれまでの常識にないコンセプトで、兵の質を強化した。
その兵を利用して、いかに「予定戦場における兵力の優勢」を実現するかを考え出し、
敵がその策に乗ったのを確認すると、これまた常識を超えたスピードで行動した。
そして、「戦いの中心」を敵の予期しない場所に出現させて、勝利を収めたのである。
奇襲の要素は一つもなかった。
あくまでも、兵力の優勢を貫いた強襲であった。
ただし、今川義元にとっては奇襲そのものだったであろう。
さらに、その勝利には運が加担し、義元の首というボーナスがついていた。
勝つべくして勝ったのだが、勝利の度合いは、正に奇跡であったといえよう。

鈴木銀



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